北見での雑穀商から札幌での薪炭商
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/01 09:24 UTC 版)
「浜野増次郎」の記事における「北見での雑穀商から札幌での薪炭商」の解説
実業家として生きていくことを決意した増次郎は、まず、長兄の転居先である野付牛町(現・北見市)でリンゴの苗木の販売を手掛けた(これは、北見地方におけるリンゴ作りの先駆けになったと言われている)。北見に落ち着いた増次郎は、仁木村の知り合いから雑貨類を送ってもらって雑貨店を開き、さらに、当時北見地方で盛んであった雑穀取引に目を付け雑穀の買い付けを始めた。当初は増次郎の思惑通り利益を上げることができたが、資本力のある大手商社が進出してくるようになると地元業者は大打撃を受け、増次郎も野付牛での事業をあきらめて1919年(大正8年)に札幌へと戻った。 この間に増次郎は結婚し、1919年(大正8年)に長男が、翌1920年(大正9年)には次男が生まれている。 札幌に戻り再び郵便局員に就職した増次郎は、郵便車で各地の情報に接するうちに生産地と消費地での木炭価格の開きに目を付けた。たまたま知り合った沼ノ端の炭焼き山の経営者(山元)の勧めもあって、札幌で安価な木炭の販売に乗り出した。 その頃開道五十年記念北海道博覧会を控えていた札幌では、それを当て込んだ店舗の開業が激増しており、増次郎は手頃な店舗を見つけることができなかった。やむを得ず台車で送ってきた木炭をそのまま台車で売る「無店舗販売」とし、利益を少なくし回転を早める「薄利多売」で顧客を広げていった。売り上げもすぐに山元へ送金し、さらに米や味噌、醤油、砂糖等食料品などの必需品を山元に送って信頼関係を築いていった。 こうして数年のうちに薪炭商として頭角を現していったが、木炭の仕入れを一手に引き受けてきた山元の山は次第に刈り尽くされ、需要に応えるだけの生産ができなくなりつつあった。そうした頃、帯広市に設立された製糖会社がビートの作付けを大々的に奨励し、地元の農家は山林を刈り払って作付けを増やすことになったという情報を掴んだ。刈り払われる予定の山林には、木炭の原料となるナラが豊富にある。増次郎は、これを買い取って山元に送って木炭を生産しようと考え、早速現地に向かって、あるだけの持ち金をはたいてナラを買い占めた。しかし切り倒してみるとほとんどの木は芯腐れで幹はウロ、使い物にならない代物であった。しかも、ナラの腐った部分が雨水を吸い込んで重くなり、運搬費も割高となった。ナラ材を大量に仕込んで山元を援助し、自らの起死回生を図ろうとしたこの対策は失敗に終わった。1926年(大正15年)に薪炭店を手放し、これまで数年かけて築いてきた事業の成果を全て失うこととなった。 この間の1924年(大正14年)には母も亡くしている。
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