北海道での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 14:12 UTC 版)
1874年(明治7年)、夫妻は函館に赴任した。当時の函館は、禁教令(キリスト教禁止令)廃止直後であり、宣教師にとって安全な地とは言い難かった。国外から函館を訪れた者には、家の扉を固く閉ざして日本人を拒む者もいた。しかしフローラは夫メルマンと共に、快く日本人を家へ迎え入れた。友人となったドイツの船長から、護身用にピストルを渡されたが、「私たちが日本に来たのは護身のためではなく、愛を伝えるため」といって、そのピストルを海に沈めたという逸話もあった。 ハリスの伝道の一方で、フローラは婦人会を作り、西洋の日常生活を函館に伝えた。同1874年には女子教育のために、私塾「日日学校」を民家に設立した。 やがてフローラは、当時の函館に女子教育の仕組みが無いことを憂慮して、1878年に婦人外国伝道協会機関紙「ウーマンズ・フレンド」に「日本女子教育振興論」を著し、大きな反響を呼んだ。フローラはこの記事で、函館での女学校設立の必要を説いており、これに共感したアメリカ公使夫人のカロライン・ライトの献金により、遺愛女学校の創設のきっかけとなった。 函館において女子教育が開始された後、1880年に「日本女子職業論」を寄稿して、青山女子手芸学校の設立に尽力した。1882年、遺愛女学校の前身となるカロライン・ライト・メモリアル・スクールを函館元町に設立した。 文学にも精通しており、詩や文章も多く残した。1954年版の『讃美歌』343番もフローラの作詞である。文学の古典も愛好しており、1881年に『土佐日記』を英訳、和歌も作るほどであった。 札幌バンドの佐藤昌介、内村鑑三、新渡戸稲造たちの尊敬も集めた、特に内村鑑三とは親交があり、内村は自身の「僕が心底より尊敬するところの三恩人」の1人にフローラを挙げた。
※この「北海道での活動」の解説は、「フローラ・ハリス」の解説の一部です。
「北海道での活動」を含む「フローラ・ハリス」の記事については、「フローラ・ハリス」の概要を参照ください。
- 北海道での活動のページへのリンク