加波山権現の教線拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 10:02 UTC 版)
上記吾輔が活躍していた頃にあたる文化8年(1811年)、親宮別当円鏡寺から中宮別当文殊院に対し、文殊院が中宮再建のための講を結成する動きを円鏡寺の代理を称する者が妨害した事を謝罪しており、そこから文殊院が中宮再建のための講を結成して勧進活動を展開していたことが判る。また文政元年(1818年)に親宮と上小幡、飯田両村(現桜川市真壁町上小幡と同市東・南飯田)との間に、山中禅定場の中で親宮の所管する所には同宮所属の山先達が案内をするとの取極めがなされており、これは加波山禅定場に本宮・中宮・親宮それぞれが所管する場所があったために、それぞれの信者がどこを禅定するかを明確化するための取極めであったと思われる。これらの動きを通じて判明するのは、この頃を契機として各別当が山中を分割管理する体勢を確認するとともにそれぞれの信仰区域をも確定化したであろう事で、その背景には各別当が財源確保を主目的に山先達を媒介とした積極的な布教活動を行い、各地に禅定講が簇生したという事情があったと思われる。また当時は富士信仰や御嶽信仰に代表される山岳登拝が増加したり、新宗教が勃興したり、俗山伏(山伏に倣った修行に励み加持祈祷等も行う一般人)が増加したりと、全国的に民衆信仰が新たな展開を見せる時期でもあり、加波山における山先達の活動もこうした潮流の一環として捉える事が可能である。 ともあれ、禅定場の成立がそれまで修験者の専有とされていた山中霊場を一般人に開放するものであり、禅定を志願する人々による禅定講結成が促され、その結果が上述第2次信仰圏の形成であったろう事とその時期は江戸時代の中後期(19世紀初め頃)であったろう事とが推測できる。 なお最後に、加波山信仰は筑波山信仰と密な関係ではあるが、筑波山と異なり時の権力者(江戸幕府)と緊密な結び付きを持つ存在ではなく、そうであったが故に経済的基盤を求めた信仰圏の拡大に努める事となり、それが山麓直下の部落のみならず周辺部落における第2次信仰圏の形成をも齎すものとなったが、その反面、時の権力者と結び付かなかったが故に信仰圏は第2次のそれに留まり、更なる拡大を果たせなかったものとも思われる。
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