劉-鄧ラインから文化大革命へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 07:01 UTC 版)
「中国共産党中央委員会主席」の記事における「劉-鄧ラインから文化大革命へ」の解説
大躍進政策の失敗の責任を取り、1959年、毛沢東は国家主席の地位を劉少奇に譲った。しかし、毛沢東は引き続き党中央委員会主席の地位に留まり、毛沢東が党内序列1位、劉少奇が党中央委員会第一副主席として序列2位となった。かくして毛沢東は党の最高指導者としての地位は保ったが、以後、劉少奇-鄧小平ラインが党と国家機構を掌握した。劉少奇-鄧小平ラインは、毛沢東が推し進めた急進的な社会主義路線を現実的な路線へと修正していった。一方、急進的な社会主義路線の継続を求めた毛は、1950年代末より、党による一元的支配、党政不分を主張し、党による支配を貫徹させて統治の効率を高め、社会主義国家の建設をめざそうとした。 毛と劉-鄧ラインの路線対立が深まるなか、1966年、毛は文化大革命を発動し、劉-鄧ラインから奪権を果たした。1968年の第8期12中全会で劉少奇は党内外の全ての役職を解任されて党から除名された。また、鄧小平は党籍こそ維持したものの、やはり全ての役職を剥奪された。文化大革命で党や国家機構は麻痺したが、劉少奇と鄧小平を失脚に追いやった毛沢東は、その目的を果たすと、党・国家機構の再建に乗り出した。毛は1969年4月の第9回党大会で党規約改正を行い、党中央書記処を廃止するとともに、党中央委員会主席の党機構・政府・軍に対する指導権を強化して専権体制を固めた。 1975年1月には憲法が改正されたが、この憲法では「中国共産党による国家の領導」が明記され、党政不分体制が確実なものとなった。この憲法改正で、劉少奇の失脚によって空席となっていた国家主席は正式に廃止され、国家元首としての権能は全国人民代表大会常務委員会委員長に移行したが、国家主席が保有していた国務院総理(首相)の人事提案権は中国共産党中央委員会(最終的には中央委員会主席)が、全国武装力(中国人民解放軍・中国人民武装警察部隊(武装警察)・民兵など)の統帥権は中国共産党中央委員会主席が行使することが憲法で明記された(これらの規定は1978年に改正された憲法でも定められている)。
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