創作活動初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 15:14 UTC 版)
「ウォルト・ホイットマン」の記事における「創作活動初期」の解説
その次の夏、ホイットマンはブルックリンの別の印刷職人、エラストゥス・ウォルシントン (Erastus Worthington) のもとで働く。春に一家はウェスト・ヒルズに戻ったが、ウォルトはブルックリンに留まり、ホイッグ党系の有力週刊紙『ロングアイランド・スター』 (Long-Island Star) 編集長のアルデン・スプーナー (Alden Spooner) の店で働き始めた。『スター』にいる間に、ホイットマンは地元図書館に足繁く通い、街の弁論会に入り、劇場にも足を運ぶようになる。そして、『ニューヨーク・ミラー』紙上に匿名で作品をいくつか発表する。16歳を迎えた1835年5月、ホイットマンは『スター』を、そしてブルックリンを去り、ニューヨークにて植字工になる。職場がどこであったか思いだせないと、後年ホイットマンは語っている。その後も仕事を探したが、印刷出版業集積地域での大火事および1837年恐慌に至る不況が重なり、難航した。1836年5月、ロングアイランド・ヘムステッドに住んでいた家族のもとに戻る。1838年春まで、断続的に方々の学校で教鞭をとったが、教職には満足していなかった。 教職をしばらく試した後、ニューヨーク・ハンティントンに戻り、自身の新聞『ロングアイランダー』 (Long-Islander) を創刊する。ホイットマンは出版者、編集者、印刷工、販売、配達までをすべて自ら担った。10ヶ月後、出版所を E. O. Crowell へ売り渡し、Crowell による最初の号は1839年7月12日に出版された。ホイットマンが出版した『ロングアイランダー』は一部も残っていない。1839年夏、ホイットマンはジャマイカ地区の『ロングアイランド・デモクラット』 (Long Island Democrat、編集長 James J. Brenton) の植字工となるが、すぐにこの職を去り、1840年冬から41年春にかけて再び教壇に立ち、その後5月にはニューヨークへ移った。ニューヨークでは主に『ニューワールド』紙にて、詩人でジャーナリストのパーク・ベンジャミン・シニアや批評家ルーファス・ウィルモット・グリスウォルドのもとで下働きをした。その後1940年代は、ブルックリン・イーグル紙で2年間編集に携わるなどさまざまな新聞社を転々としつつ、散文や詩をフリーランスで発表しつづけた。
※この「創作活動初期」の解説は、「ウォルト・ホイットマン」の解説の一部です。
「創作活動初期」を含む「ウォルト・ホイットマン」の記事については、「ウォルト・ホイットマン」の概要を参照ください。
- 創作活動初期のページへのリンク