前田精
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前田 精(まえだ ただし、1898年3月3日 - 1977年12月13日)は、大日本帝国海軍の軍人[1]。最終階級は海軍少将。海兵46期。1945年8月17日のインドネシア独立の平穏無事な実現に重要な貢献をした[2]。栄典はインドネシア共和国建国功労章。兄は大本営海軍報道部長、第10航空艦隊司令長官前田稔海軍中将(41期)。弟は資生堂のデザイナー前田貢。
- ^ 奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』人名索引第9頁他。
- ^ 後にインドネシア共和国初代外務大臣となるスバルジョは自著の中で、1945年8月17日未明に行われた独立準備委員会による独立宣言に関する会合について「こうして、一人の勇敢な日本海軍少将の家での、忘れることのできない夜の会合は終わった。」と述懐している。インドネシア人自身の手による全ての準備会合を済ませ、8月17日正午までに独立宣言が発せられなければ、急進派青年らによる武力闘争の発生が避けられない(日本軍は否応なくこれを武力制圧せざるを得ない)情勢であったからである。前田はこの会合場所と保護を提供した。なお、同年8月11日にサイゴン郊外のダラットにおいて、既に寺内寿一大将よりスカルノとハッタに対して8月中のインドネシア独立許与の日本政府の意思が伝達されていた。奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』163頁他。
- ^ 小川忠 (2016). インドネシア:イスラーム大国の変貌――躍進がもたらす新たな危機. 新潮社. pp. 201-209
- ^ The legacy of Maeda's residence
- ^ “インドネシアが独立宣言文に日本の「皇紀」を採用した想い”. NEWSポストセブン. 小学館. (2018年2月10日) 2019年5月25日閲覧。
- ^ 独立宣言起草博物館(旧前田邸)HP
- ^ 『官報』第2132号「叙任及辞令」1919年9月11日。
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