初代ハクショウとアスコット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 03:25 UTC 版)
「尾形藤吉」の記事における「初代ハクショウとアスコット」の解説
同時期、藤吉は騎手として自ら「世紀の決戦」と称する競走を経験した。ハクショウと臨んだ1930年新設の内国産馬競走(中山四千米)である。この競走は中山競馬倶楽部理事長・肥田金一郎が古馬(5歳以上馬)の総決算的な競走として考案したもので、ここまで17勝を挙げ引退レースとして臨んだナスノとハクショウの一騎討ちとなった。当時の規定で2頭立ての競走は成立しないため、敗れた方が500円を払うという条件でゴーケツ(織田紋次郎騎手)に出走を要請し、3頭立てで行われた。この競走は新聞の社会面で取り上げられるほど注目を集め、当日の中山競馬場には当時としては競馬始まって以来(藤吉)という2万人が詰めかけた。藤吉は追い込み得意の騎手であったが、この競走ではナスノを先に行かせると逃げきられるとの判断から一転して逃げを打ち、そのままゴールまで逃げきってナスノに3馬身差で優勝を果たした。翌日の読売新聞には「ナスノが負けた」と観客たちが驚嘆する様子や、同馬に騎乗した岸三吉が涙したという模様が伝えられている。 また、1931年秋よりデビューしたアスコットも藤吉の伝記に一項を割かれるなど特筆される1頭である。同馬は同年春に5連勝するなど当時の尾形厩舎の筆頭格であったワカクサの弟で、農林省賞典(阪神)、中山四千米、帝室御賞典(目黒)、目黒記念、横浜特別など17勝を挙げたが、性格の温順さ、操縦の容易さもあって競走馬引退後に東久邇宮稔彦王に乗馬として寄贈され、陸軍で訓練を受けたのちに騎兵大尉・西竹一と1936年のベルリン五輪に総合馬術競技の日本代表として出場した。結果は50頭中の12位であったが、藤吉は「アスコットが数々の難関を切り抜けて野外騎乗でゴールに入ったという報告を聞いたときは、競馬に勝ったときよりうれしかった」と述べている。
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