出頭人政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/21 18:07 UTC 版)
近習出頭人は江戸幕府初期3代の頃に将軍側近として幕政の中心にいた人物を指す。家柄・武功のみでなく、将軍からの信頼や能力を買われて信頼の下に重用された。石川数正、大久保忠隣、本多正信、本多正純、永井尚政、井上正就、板倉重宗、松平信綱、堀田正盛、阿部忠秋などが近習出頭人と呼ばれている。 慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いののち覇権を握った徳川家康は、豊臣政権下の「取次」であった寺沢広高を用いながらも、徐々に本多正信・井伊直政らみずからの腹心を「取次」とした。徳川政権が確立しても、3代徳川家光の中途まで官僚機構は整わず、将軍や前将軍(大御所)の近習によっていわゆる出頭人(近習出頭人)が登用された(出頭人政治)。出頭人は、文字通り日常的に主君の側に出頭している人物であり、家光によって老中・若年寄の制が整えられる1630年代まで幕政の中枢に参加して強大な将軍権力をささえた。初期の幕府において出頭人の果たした役割は大きく、たとえば家康は茶屋四郎次郎(商人)・中井正清(大工頭)・崇伝(僧侶)など各分野で一器量を持つ者も側近として重用し、幕政の一部を分担させた。出頭人は豊臣政権下の「取次」同様、主君の意志をおしはかり、独自の判断で他の家臣に指示することもあったが、主君によって格別の恩寵を受ける彼らの言葉は主君その人の言葉と同様の権威を有した。しかし、一方で出頭人は一代限りの家臣として了解されていたため、主君を失った場合、立場は一転して不安定なものとなった。側近中の側近で権勢を誇った本多正純は家康死後の元和8年(1622年)に宇都宮城釣天井事件で失脚しているが、これは豊臣秀吉死去後の石田三成の没落と本質的に異なるところがなかった。
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