出生:川上音二郎の姪
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1889年11月24日、鶴子は福岡県福岡市(現在の博多区内)に、印判店を営む父の小原伊勢吉と母のタカの娘として生まれた。出生名は小原ツル。鶴子は2人姉妹で、1893年に妹のスミが生まれた。タカの兄はオッペケペー節で一世を風靡した俳優の川上音二郎である。両親は鶴子の幼児期に別れており、鶴子は母に連れられて上京し、4歳頃に音二郎と貞奴夫妻の養女となった。それにより本名も川上ツルとなったが、その後も戸籍上では実父の姓の小原のままだったという。後年に鶴子は「伯母(貞奴)はいつも私に不親切だった」と述べている。 1899年、音二郎と貞奴は一座をこしらえてアメリカ巡業をすることになったが、一座にはどうしても子役が必要だったため、9歳の鶴子は音二郎夫妻から厳しい演技訓練を受けて一座に加わった。一座は4月30日に横浜港を出航し、5月21日にはサンフランシスコに到着し、その4日後から現地の劇場で公演を始めた。鶴子は演目のひとつ『楠正成』の「桜井駅訣別の場」で、音二郎演じる楠木正成の子正行を演じて初舞台を飾り、新聞評では「正行に扮して必死の力を振るいたり」と演技を評価された。 しかし、公演は失敗し、関係者に売上金を持ち逃げされてしまったこともあり、一座は困窮状態に陥った。さらにアメリカの小児保護法では、子役でも学校に通わせなければならず、夜間興行の舞台に出演させることは禁じられていた。実際に小学校にも通えずみすぼらしい格好で路頭に迷っていたという鶴子の姿は、アメリカ人の目に児童虐待と映った。こうした理由で、音二郎はこれ以上子供の鶴子を連れて巡業を続けるのが重荷となり、辛い目をさせるのも可哀相だったため、よりよい環境で育つように願って、8月に鶴子をサンフランシスコ在住の日本人画家の青木年雄の許へ養女にやった。鶴子を手放した一座はサンフランシスコを後にしてアメリカの都市を回り、1900年にはヨーロッパへ向かった。
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