再びミナルディへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/09 06:18 UTC 版)
「グスタフ・ブルナー」の記事における「再びミナルディへ」の解説
1998年にミナルディに復帰し、1999年にテクニカルディレクターに就任した。復帰後の初作品となったのは1999年のM01で、そこそこの戦闘力を発揮し、第14戦ヨーロッパGPでは、レースが大荒れとなったことにも助けられ、ミナルディにとって久々の入賞を記録した。この入賞により、潤沢な予算規模を持つとされた新チーム、ブリティッシュ・アメリカン・レーシングをシリーズランキングで上回り、「最も予算規模が小さいチーム」でクルマを設計したブルナーにも注目が集まった。 続く2000年のM02で、低予算のミナルディながら、トップチームですら採用していなかったチタン鋳造のギアボックスを採用し、それにリアサスペンションのトーションバーを組み込むという意欲的な設計を盛り込んだ。この設計は構想倒れに終わることなく、入賞(6位以内完走)こそなかったが、数度のシングルフィニッシュ(9位以内完走)を記録するなど、M02は好走を見せた。 この頃になると、低予算チームでも新規性に富んだアイデアを盛り込みつつ素性も良いシャシーを作る手腕が改めて評価されて注目を集め、グランプリ期間中にエイドリアン・ニューウェイなど、トップチームのデザイナーたちがミナルディのピット前で最下位であるミナルディのクルマをまじまじと観察するという様が見られるようになった。 2001年、この年のPS01ではプッシュロッドが主流の時代の流れに逆らい、サスペンションにプルロッドを採用した。このシャシーも関係者からの評価は悪くなかったが、搭載されたコスワース・ZETEC-Rエンジンはすでに3年落ちであり、資金力なども含めた他チームとの差を埋めることはできず、チーム成績は低迷した。フェルナンド・アロンソはこのマシンでF1デビューを果たし、自身の参戦初年度ながらしばしば好走を見せた。
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