再びヨーロッパで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 07:56 UTC 版)
「ボフスラフ・マルティヌー」の記事における「再びヨーロッパで」の解説
ヨーロッパに戻った後、最初はニースに住んだが、1956年からはローマのアメリカアカデミーで教鞭を執った。しかし住まいを構えることはせず、ホテルを転々として暮らしていた。様々な委嘱に応えて、数多くの作品を作曲した。1950年代の作品は創作第3期に分類され、新印象主義の色合いの濃い、その一方で形式の枠組みにとらわれない作風の作品を多く作曲している。 1958年11月、胃の手術を受けるが、これはすでに手遅れとなった癌であった。1959年春までは小康状態を保つが、同年8月28日、スイスのバーゼル近郊のリースタルの病院で息を引き取った。遺体は彼の遺言により、ザッハーが所有する森の一隅に葬られた。 1979年マルティヌーの遺灰は故国へ帰った。ティル劇場で行われた慰霊祭では、ヴァーツラフ・ノイマンの指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で交響曲第6番とカンタータ『泉開き』が演奏された。その後、前年に亡くなった夫人の眠るポリチカの聖ミヒャエル墓地の墓に納められたが、その墓石には『泉開き』の一節から "Jsem doma" (「われ、故郷にあり」)と刻まれた。
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