再びル・マンへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 06:26 UTC 版)
その後、日産は1995年・1996年と再びル・マン24時間レースにスカイラインGT-Rで挑戦したが、その他のマシンに対して明らかなポテンシャル不足で惨敗。そこで、日産はトム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)の協力のもと、新たなGTマシンである日産・R390の開発に着手。その心臓部としてVRH35が選ばれ、VRH35Lとして再びル・マンの桧舞台へ登場する。しかし、実態は若干の変更のみで、グループC時代に使われていたエンジンにただリストリクターをつけただけのものであった。その理由として開発期間が短かったことや予算がシャシ開発にほとんど回ってしまったことなどが原因として挙げられている。 1997年のル・マン24時間レースでは予備予選でトップタイムを出すほどのマシンポテンシャルを見せ付けるのだが、その後、レギュレーション解釈の違いによってトランク部の改造を余儀なくされ、トランスミッションの冷却がうまくいかなくなりトラブルが続出してしまい、不本意な結果となった。翌1998年のル・マン24時間レースは、他のマシンに対して明らかなポテンシャル不足で一発の速さが不足していた。それでも手堅いマシン作りで信頼性に優れ、着実に24時間走りきり、日本人トリオ(星野一義・鈴木亜久里・影山正彦)の手によって総合3位(当時日本人トリオでのル・マン最高位。翌1999年のル・マン24時間レースにトヨタ・GT-One TS020で片山右京・土屋圭市・鈴木利男組が総合2位を獲得し、記録は塗り替えられた)を獲得した。
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