内藤信政 (江戸時代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/12/18 02:13 UTC 版)
内藤 信政(ないとう のぶまさ、明和8年5月28日(1771年7月10日) - 享和3年閏1月14日(1803年3月7日))は、江戸時代後期の旗本内藤信義(越前守)の養子。出羽国米沢藩8代藩主上杉重定の四男で、実母は側室の橋本氏。養兄に米沢藩9代藩主上杉治憲(鷹山)、異母兄に10代藩主上杉治広。通称は上杉氏時代は近江。諱は上杉氏時代は定興、内藤家に入って信政と改名。
寛政元年(1789年)、19歳のときに上杉治憲より、治憲自身が作り細井平州が校閲した「学問大意」を与えられる。また、柳河藩家老立花通栄(織衛)の所蔵文書の中に、寛政10年9月23日(1798年)作成の、上杉弾正大弼舎弟の近江が東都如来先生への遊学の際送られた書付がある。
「寛政重修諸家譜」作成以後に養子入りしたためか、同書には養子入りについての記載はない。
参考文献
「内藤信政 (江戸時代)」の例文・使い方・用例・文例
- (江戸時代),渡来した外国船の船長
- (江戸時代)別の領地の人を相手に訴訟を起こす時の,添え使い口上書という文書
- (江戸時代)国訴という農民一揆
- (江戸時代)米の取引をする市場
- (江戸時代)落札した蔵米の引換え札
- (江戸時代)郷学という学校
- (江戸時代)郷村に設置された共同穀倉
- (江戸時代)五人組という組織
- (江戸時代)御用商人に与えられた資金
- (江戸時代)奉行が執務した町奉行所内の部屋
- (江戸時代)公用の旅行者が宿を優先的に使用すること
- (江戸時代)公用の旅行者が利用した宿
- (江戸時代)幼児のぼんのくぼに剃り残した毛髪
- (江戸時代)罪人を世人に晒した刑罰
- (江戸時代)罪人の首を獄門にさらして見せものにした刑罰
- (江戸時代)参勤交代という,大名統治制度
- (江戸時代)(大名が)参勤交代する
- (江戸時代)江戸三座という,中村座と市村座と森田座の三劇団
- (江戸時代)商家で働く少年
- (江戸時代)歌舞伎劇場に勤める使用人
- 内藤信政_(江戸時代)のページへのリンク