具体化と着工
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 15:24 UTC 版)
「大阪電気軌道四条畷線」の記事における「具体化と着工」の解説
しかし1929年(昭和4年)6月に、田中義一内閣が崩壊する前の行きがけの駄賃ともいうべき格好で、計画が杜撰だった東大阪電鉄の大阪森町(森ノ宮) - 四条畷 - 奈良間に敷設免許が下りたことで、状況は一変する。この免許線は計画中の四条畷線のほか、既存路線の奈良線とも並行しており、大軌の権益を損なわせる恐れを生じさせた。大軌ではこれに対抗するため、四条畷線の工事を急遽具体化させた上で、工事に取り掛かることにした。 1月に、終点地を鷲尾駅(後に孔舎衛坂駅と改称し、現在廃止)から額田駅に変更した。鷲尾駅は生駒山麓の傾斜上にあり地形が険しいため、路線を分岐させることが容易な地に改めたためである。そして7月に施行認可を得て、下ノ辻(今の鶴見区今福鶴見辺り) - 寺川間7.8kmを着工した。翌年12月には蒲生 - 下ノ辻間1.3kmの免許も収得し、城北運河(鶴見運河)を渡る橋脚の下部工事も行った。この橋脚は完成後、とりあえず仮設の人道橋となったが、四条畷線建設中止後の1960年(昭和35年)に道路橋となり、「大喜橋」(だいきばし)の名がついた。 さらに、当初予定されていた起点地の天満橋筋四丁目を桜ノ宮に変更した(現在の帝国ホテル大阪付近)。前者は、当初大阪市電の乗り入れが予定されていたことから候補地になったものだが、市電の乗り入れがなされないことになったため、代替地として京阪電気鉄道の京阪本線が梅田へ乗り入れる予定で一部用地を収得したものの、計画が凍結されていた梅田線(蒲生 - 桜ノ宮 - 梅田)の計画を一部拝借する形で、取りあえずは京阪線の蒲生信号所に併設して大軌の蒲生駅を設け、京阪の天満橋駅や将来完成するであろう梅田駅に乗り入れることにし、後に独自線を建設することにしたのである。しかしその後、京阪の経営が破綻寸前に陥り梅田線の計画が事実上破棄されることになってしまったため、天満橋駅への乗り入れも考えたが、線路容量に余裕のないため不可能となり、起点の候補地選びは頓挫してしまった。
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