公開選考
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「1996年の国際連合事務総長の選出」の記事における「公開選考」の解説
11月12日、アメリカが拒否権を行使することを想定して、インドネシアのヌグロホ・ウィスナムルティ(英語版)安保理議長は、公開選考の手順を定めた。安保理は無記名で何度も事前投票(ストロー・ポール)を実施する。候補者が決まると、次の事前投票では、常任理事国は赤い紙、非常任理事国は白い紙で投票する。これにより、いずれかの常任理事国に拒否権行使の意思があることが明らかにされる。少なくとも1人の候補者が9票以上を獲得し、拒否権の行使がない場合、最終的に決議案が提出され、投票が行われる。この「ウィスナムルティ・ガイドライン」は、1981年の選出の膠着状態を打開するために用いられたプロセスを正式に定めたもので、その後の全ての事務総長の公開選考で用いられている。 ブトロス=ガーリの後任には、4人のアフリカ人候補者が指名された。コートジボワールのアマラ・エシー(英語版)、ガーナのコフィー・アナン、ニジェールのハミド・アルガビット(英語版)、モーリタニアのアムドゥ・ウルド=アブダラー(英語版)である。12月6日に安保理の会合が開催されたが、候補者が増えるのを待つために投票は行われなかった。しかし、他の候補者は指名されなかった。セネガルのムスタファ・ニアスは、中国が拒否権を行使する可能性があるという理由で指名されなかった。タンザニアのサリム・アハメド・サリム(英語版)は、フランスが拒否権を行使する可能性があるため指名されなかった。総会の会期終了が12月17日に迫っていたため、安保理は1週間で事務総長を選出しなければならなかった。 12月10日に行われた1回目の事前投票では、アナンが12-2-1(拒否権1)でトップ、エシーが11-4-0(拒否権2)で2位となった。アナンはフランスから、エシーはアメリカとイギリスから拒否権行使の意思を表明された。フランスがアナンを拒絶したのは、ガーナが英語圏であり、かつ、アナンがアメリカの大学に通っていたためだったが、実際にはアナンはフランス語を流暢に話すことができた。 2回めの投票では、アナンが賛成票10、反対票3(拒否権1)、棄権1でリードし、エシーが賛成票7、拒否権2で2位となった。フランス語圏の候補者には全て、アメリカとイギリスが拒否権を行使していた。 12月11日の3回目の投票では、アナンがフランスの拒否権を含む11-4-0の得票でリードし、エシーは米英の拒否権を含む6-4-4で2位だった。フランス語圏と英語圏の間で行き詰まりを見せていたが、中国がアフリカ出身者以外への拒否権行使を表明していたため、フランス語圏と英語圏が大半を占めるアフリカから候補者を選ぶしかなかった。 12月12日に行われた4回目の投票では、14-1-0でアナンが有利な候補者となったが、フランスが拒否権を行使した。 12月13日、フランスはアナンに対する拒否権を取り下げた。安全保障理事会は、喝采投票(英語版)による満場一致で決議1090を採択し、次期国連事務総長候補としてコフィー・アナンを総会に推薦した。12月17日、総会は決議A/51/L.66を採択し、2001年12月31日までの任期でコフィー・アナンを次期事務総長に任命した。
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