公認の交際
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 09:31 UTC 版)
「カタリーナ・シュラット」の記事における「公認の交際」の解説
1886年の7月、フランツ・ヨーゼフは初めて、カタリーナを貸し別荘ヴィラ・フラウエンシュタインに訪ねた。彼から報告を聞いたエリーザベトは後日、自分も娘のマリー・ヴァレリーを連れてそこを訪れ、こうして2人の交際は皇帝家公認の事実となった。この時フランツ・ヨーゼフには、1875年に知り合ったアンナ・ナホフスキーという愛人がいたが、この1886年からカタリーナとの交流が深まるにつれて、彼の気持ちはカタリーナへと移っていった。フランツ・ヨーゼフは、2年後の1888年まで、何度かカタリーナの別荘を訪れた。 1888年の8月、今度はカタリーナがバート・イシュルの、カイザー・ヴィラに招待された。皇帝夫妻はカタリーナにこの別荘の内外を案内し、3人で楽しいひと時を過した。両親と共に別荘に来ていたマリー・ヴァレリーはまだ割り切れないものを感じていたが、カタリーナが母とは違うタイプの女性で、飾り気がなく、深い思いやりを持ったすばらしい女性であり、彼女との交際が父にとって大変ありがたいものとなっている事は、認めざるをえなかった。 エリーザベトは、シェーンブルン宮殿にもよくカタリーナを招待した。フランツ・ヨーゼフは、エリザベートに対するのと同様に、カタリーナに対しても大変に気前がよかった。街中に住居を世話してやった上に、シェーンブルン宮殿のそばにもこぢんまりとした別宅を用意してやった。他にも、アクセサリー、ドレス、家具などをふんだんに贈ったのはもちろん、年間手当として約3万グルデンを自由に使わせた。エリーザベトは、旅先にあってもカタリーナの事をよく気にかけていたらしい。自分の方からは鉱泉地を紹介したり、各種の療法を勧めたりし、その代わりにカタリーナの近況を絶えず知りたがった。フランツ・ヨーゼフは妻には何一つ隠し立てせず、カタリーナと2人で散歩や外出した事や、今度の芝居の役、病気はもちろん、彼女の体調の細々とした変化まで報告した。フランツ・ヨーゼフの妻エリーザベトが取り持ち、公認している、この3人の不思議な関係は、マリー・ヴァレリーだけでなく、カタリーナの息子のアントンをも困惑させたという。
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