公的活動の経歴
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「ウィリアム・カルヴィン・チェイス」の記事における「公的活動の経歴」の解説
ハワード大学の学生だった当時のチェイスは、合衆国政府印刷局で事務職員としても働いていた。この職では2年間働いたが、黒人であったため昇進の機会は与えられなかった。彼は退職し、合衆国政府印刷局長(英語版)だったアルモン・M・クラップ(英語版)を相手に訴訟を起こした。1875年、チェイスは『Boston Observer』紙のワシントン通信員となったが、同紙は1879年に廃刊した。次いでチェイスは、『Washington Plain Dealer』紙に勤めた。チェイスは、政治絡みの職に就くことを望んでいた。当時、連邦保安官だったフレデリック・ダグラスは、当初はチェイスを自分の部局で働かせようと考えていた。しかし、クラップがダグラスに連絡を入れ、チェイスの任命を思いとどまらせた。その後、チェイスは、ダグラスを攻撃する文章を公表するようになったが、両者は後に和解し、親友となった。次いでチェイスは、チャールズ・N・オテイ (Charles N. Otey) が編集にあたっていた『Argus』紙の記者となった。オテイが引退した際、チェイスは編集長とされ、 G・W・グラハム (G. W. Graham) が経営責任者となった。グラハムは紙名を『Free Lance』と改めたが、同紙は、それまでチェイスが批判の矛先を向けていた集団に売却されることとなり、社から追われた。そして、1882年に至り、チェイスは『ワシントン・ビー (Washington Bee)』紙に移った。同紙が創刊して間もない初年のうちに、チェイスは編集者となり、以降1921年に死去するまで、その座にとどまった。その後もチェイスは公職への任命を求めて運動した。1881年、ダグラスがワシントンD.C.の捺印証書登録官(英語版)となると、『ワシントン・ビー』に入ったばかりであったチェイスは、遂にダグラスに任命されて、その配下の事務職員となった。チェイスはG・W・ウィリアムズ(英語版)の著書『History of the Negro Race』を批判する文章を書き、また、ロバート・パーヴィス(英語版)への批判も展開したが、これらは議論を呼ぶものとなった。 『ワシントン・ビー』紙の編集に加わって間もなく、1883年から1884年にかけて、ハワード大学法科大学院の授業に出るようになった。編集業務のため、チェイスは法学の学位を得るところまではいかなかったが、その後も密かに法学の勉強を続けた。1889年、彼はバージニア州とワシントンD.C.で法曹資格を得て、ワシントンD.C.で弁護士としての仕事を始めた。弁護士で、新聞編集者という立場は、チェイスをワシントンにおける共和党の指導者のひとりに押し上げ、彼は1900年共和党全国大会(英語版)と1912年共和党全国大会にワシントンD.C.代表として派遣された。
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