公的所有への移管、1924年 - 1933年
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「シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道」の記事における「公的所有への移管、1924年 - 1933年」の解説
シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道の近代化や、地下鉄網のその他の場所での様々な改良にも関わらず、地下鉄各社は依然として利益を出すのに苦しんでいた。地下鉄グループが1912年以来所有していた、ロンドン総合路線バス会社(英語版)はとても利益が上がっており、運賃をプールすることで、バス会社の利益をあまり利益の出ていない鉄道に補助するために使っていた。しかし1920年代初頭になると多くの小さなバス会社が競争を仕掛け、ロンドン総合路線バス会社の利益は侵食され、グループ全体の収益性に悪影響をもたらした。 グループの収益を守るために、経営者のアシュフィールド卿(英語版)はロンドン地区の運輸事業を規制するよう政府に働きかけを行った。1920年代を通じて、交通がどの程度規制や公共の管理下に置かれるべきかについてアシュフィールドと労働党のロンドンカウンティの議員(後に庶民院議員)であったハーバート・モリソン(英語版)が前面に立って議論を行い、この方向で一連の法制が進められた。アシュフィールドは、既存のグループを競争から守り、さらにロンドンカウンティにおける路面電車網を実質的に管理できるようにする法制を望んでいたが、モリソンは完全に公的所有に移すことを望んでいた。数年にわたって出だしでつまづいたものの、最終的に1930年終わりに地下鉄グループ、メトロポリタン鉄道、ロンドン旅客運輸地域として指定された範囲内のすべてのバスと路面電車を管理下に収めるロンドン旅客運輸公社を設立する法案が発表された。この公社は妥協であり、公共管理下に置かれたものの完全な国有化ではなかった。1933年7月1日に発足した。この日、シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道やその他の地下鉄各社は清算された。
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