公的所有への移管、1923年 - 1933年
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「セントラル・ロンドン鉄道」の記事における「公的所有への移管、1923年 - 1933年」の解説
緊密な協力を行い、またセントラル・ロンドン鉄道の駅や地下鉄路線網全体に対して改良がおこなわれたものの、地下鉄各社は依然として財務的な問題を抱えていた。とても儲かっていたロンドン総合路線バス会社(英語版)を1912年からロンドン地下電気鉄道が傘下に収めていたため、収入をプールすることで、バス会社からの利益をあまり儲かっていない鉄道に内部補助することが可能であった。しかし1920年代には多くの小さなバス会社が競争を仕掛けてきたため、ロンドン総合路線バス会社の利益は侵食され、ロンドン地下電気鉄道グループ全体の収益にも悪影響を与えていた。 ロンドン地下電気鉄道グループの収益を守るため、会長のアシュフィールド卿(英語版)はロンドン地域での運輸事業に規制を行うよう、政府に働きかけを行った。1923年から、交通がどの程度規制や公共の管理下に置かれるべきかについてアシュフィールドと労働党のロンドンカウンティの議員(後に庶民院議員および運輸大臣)であったハーバート・モリソン(英語版)が前面に立って議論を行い、この方向で一連の法制が進められた。アシュフィールドは、既存のグループを競争から守り、さらにロンドンカウンティにおける路面電車網を実質的に管理できるようにする法制を望んでいたが、モリソンは完全に公的所有に移すことを望んでいた。7年にわたって出だしでつまづいたものの、最終的に1930年終わりに地下鉄グループ、メトロポリタン鉄道、ロンドン旅客運輸地域として指定された範囲内のすべてのバスと路面電車を管理下に収めるロンドン旅客運輸公社を設立する法案が発表された。この公社は妥協であり、公共管理下に置かれたものの完全な国有化ではなかった。1933年7月1日に発足した。この日、セントラル・ロンドン鉄道やその他の地下鉄各社の資産はロンドン旅客運輸公社に移管された。
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