八王子設楽家とは? わかりやすく解説

八王子設楽家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 03:29 UTC 版)

設楽氏」の記事における「八王子設楽家」の解説

設楽能久(よしひさ)(清政、貞光、神三郎))を祖とする。 川路城主設楽清広(1507 - 1570)の嫡子であったが、姉婿設楽貞通との抗争により、設楽家伝来の系図、その他重器持って出奔その後北条氏直仕え小田原征伐では、武州八王子城守った北条家没落後は武州多摩田村土着する。 『新編武蔵風土記稿』に、三河国設楽郡設楽神三郎の子孫が後北条氏仕えて、のちに武蔵国多摩郡恩方村現・東京都八王子市)に住み着いたことが記されている。墓所心源院下恩方町1970)。 能久の子である能業は、幕府召されて八王子代官となる。『信濃史料』に「寛永幕府代官設楽能業等、筑摩郡殿野入等を検地す、清左衛門竿請帳」、「寛永一七 徳川家光幕府代官岡上景親・設楽能業等の、下野日光祭下向公家衆木曽路往還際し、之を路次接待せし辛労を犒ふ」、「寛永一八 幕府代官設楽能業、佐久郡本間川等に、本年年貢割付く」などとある。 西沢淳『幕領陣屋代官支配データベースによると、この家系で計9人が代官となっている。 長兵衛能業(?-1647年) 源右衛門能政(1631-1678年) 権兵衛能真(?-1667年太郎兵衛某(1678-1692年) 孫兵衛能武(1667-1700年) 喜兵衛正秀(1690-1700年) 勘左衛門能久(1688-1700年) 長兵衛能該(1742-1753年) 八三郎能潜(1843-1855年):勘定吟味役弘化元年1844年江口大阪市東淀川区代官安政2年1855年岩鼻陣屋群馬県高崎市代官一族は、代官の他、勘定(能利、能乗、正勝)、具足奉行(能賢)、蔵奉行(茂雅)、金奉行(正篤)、郡奉行(正凝)を務めた。 岩次郎能棟(備中守)は徳川慶喜目付八王子千人同心には、清忠以外にも設楽姓がある。 興福寺八王子市東浅川町754)には、一族墓石宝篋印塔15基が残され、勘左衛門能久の屋敷勝手口にあった門が興福寺山門として移築されている。(関東十八代官江戸城下への移住後設楽左衛門万治年間八王子市高尾町南浅川自費で約7年かけて改修し、この功により幕府から永免田畑高9斗を受けた同氏の墓が能久と同じ心源院下恩方町1970)にあることから、八王子設楽家の子とされる

※この「八王子設楽家」の解説は、「設楽氏」の解説の一部です。
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