八王子設楽家
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設楽能久(よしひさ)(清政、貞光、神三郎))を祖とする。 川路城主の設楽清広(1507 - 1570)の嫡子であったが、姉婿の設楽貞通との抗争により、設楽家伝来の系図、その他重器を持って出奔。その後、北条氏直に仕え、小田原征伐では、武州八王子城を守った。北条家没落後は武州多摩郡椚田村に土着する。 『新編武蔵風土記稿』に、三河国設楽郡の設楽神三郎某の子孫が後北条氏に仕えて、のちに武蔵国多摩郡下恩方村(現・東京都八王子市)に住み着いたことが記されている。墓所は心源院(下恩方町1970)。 能久の子である能業は、幕府に召されて八王子の代官となる。『信濃史料』に「寛永六 幕府代官設楽能業等、筑摩郡殿野入村等を検地す、清左衛門竿請帳」、「寛永一七 徳川家光、幕府代官岡上景親・設楽能業等の、下野日光祭礼下向の公家衆の木曽路往還に際し、之を路次に接待せし辛労を犒ふ」、「寛永一八 幕府代官設楽能業、佐久郡本間川村等に、本年年貢を割付く」などとある。 西沢淳『幕領陣屋と代官支配』データベースによると、この家系で計9人が代官となっている。 長兵衛能業(?-1647年) 源右衛門能政(1631-1678年) 権兵衛能真(?-1667年) 太郎兵衛某(1678-1692年) 孫兵衛能武(1667-1700年) 喜兵衛正秀(1690-1700年) 勘左衛門能久(1688-1700年) 長兵衛能該(1742-1753年) 八三郎能潜(1843-1855年):勘定吟味役。弘化元年(1844年)江口(大阪市東淀川区)代官。安政2年(1855年)岩鼻陣屋(群馬県高崎市)代官。 一族は、代官の他、勘定(能利、能乗、正勝)、具足奉行(能賢)、蔵奉行(茂雅)、金奉行(正篤)、郡奉行(正凝)を務めた。 岩次郎能棟(備中守)は徳川慶喜の目付。 八王子千人同心には、清忠以外にも設楽姓がある。 興福寺(八王子市東浅川町754)には、一族の墓石(宝篋印塔)15基が残され、勘左衛門能久の屋敷の勝手口にあった門が興福寺山門として移築されている。(関東十八代官の江戸城下への移住後) 設楽杢左衛門:万治年間に八王子市高尾町の南浅川を自費で約7年かけて改修し、この功により幕府から永免田畑高9斗を受けた。同氏の墓が能久と同じ心源院(下恩方町1970)にあることから、八王子設楽家の子孫とされる。
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