全日本ロードレース
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1995年全日本ロードレース選手権GP250にチーム高武からデビュー。チームメイトの加藤が天才ぶりを発揮し優勝を重ねるのに対し、玉田はしばらく結果が出ず苦しんだが、1998年雨の鈴鹿サーキットでホンダ勢で唯一の勝利となる全日本初優勝し、最終戦のSUGO戦では本来カストール・ホンダのNSR250に乗る加藤大治郎がTIでの事前テスト中に指の健を切った事で負傷離脱したため、その代役としてNSR250に乗る。 1999年はスーパーバイククラスにワークススペックのRVFで転向。大柄なスーパーバイクが玉田のライディングに合っていたのか、高い順応ぶりを発揮、最終戦ツインリンクもてぎでスポット参戦のGPライダーを押さえスーパーバイク初優勝。この年の鈴鹿8時間耐久ロードレースには加藤大治郎とのペアで参戦、優勝したアレックス・バロスと堂々とトップ争いを繰り広げる。結局ペアの加藤が転倒し、その際に東コースショートカットの1週減算ペナルティのため、8位に終わったものの玉田がトップライダーとして認知されたレースであった。 2000年もサテライトながらワークスを上回る活躍を見せた玉田は2001年、ホンダワークスであるチーム・キャビン・ホンダ入り。春に行われたスーパーバイク世界選手権・SUGO大会では世界選手権レギュラーライダーを押しのけ第1・第2レース優勝の完全制覇。世界に玉田誠の名を知らしめた。レギュラー参戦の全日本でも3勝を上げチャンピオンを争うが、最終戦鈴鹿で転倒リタイア、惜しくもランキング2位に終わる。 2002年は全日本でこの年のみ開設された「エクスペリメンタルクラス」にMotoGPマシンRC211Vで、スーパーバイククラスに鈴鹿8耐へのマシン開発としてVTR1000SPWで半々の割合で参戦する予定だった。実際はエクスペリメンタルへの出場は行われず、前半戦でテスト参戦したスーパーバイクで玉田が優勝を重ねたことや、開発の目的であった鈴鹿8耐が終了したことからチームが方針を転換、スーパーバイククラス制覇に向けて残り全戦にエントリーすることになった。後半戦になって思うような成績が上げられず後退、前年と同じく最終戦鈴鹿で転倒を喫しタイトルを逃す。前半戦2戦を欠場していることを考慮すると立派な成績である。春に行われたスーパーバイク世界選手権・SUGO大会の第2レースではミシュランのワークススペックを履いたコーリン・エドワーズとトロイ・ベイリス以外のダンロップユーザーでは唯一優勝をした。
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