先史・古代の交通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:53 UTC 版)
琵琶湖周辺では、縄文後期の丸木舟(鰹節型と割竹型の2形態、全長は最大のもので7.9メートル)が発見されており、先史時代から湖上交通がおこなわれていたことがわかる。弥生中期後半には丸木舟は準構造船に発展し、古代には湖北と都を結ぶ航路が築かれていた。『万葉集』にも琵琶湖の船は多く詠まれているが、帆を読んだものはほとんどなく、当時帆走は未発達であったと推測される。東大寺・藤原宮・石山寺の造営においては、甲賀・高島・田上からの木材が湖上交通を利用して運搬されている。 その後、平安時代に都が長岡京から平安京に遷都されると、北国・東国と都とを結ぶ琵琶湖という交通路は、大きく発展していくことになる。『延喜式』巻二六主税には北陸六箇国の税は塩津や勝野(高島市大溝)から湖上路を大津に運ぶとの規定があり、東海よりの物資も中山道を経て朝妻(米原市)から同様に大津に運ばれた。 湖上交通は、大量の物資や人を運ぶには便利であったが、前述の風や波による遭難のリスクもあった。高市連黒人による わが船は比良の湊に漕ぎ泊(は)てむ沖へな離(さか)りさ夜更けにけり —万葉集 という歌からは、舟旅への恐れが窺える。平安時代ないし室町時代には、 武士(もののふ)の矢橋の船は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋 —源俊頼もしくは宗長 という歌が詠まれ、また「急がば廻れ」という諺も広まった。
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