俳優の道へとは? わかりやすく解説

俳優の道へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:53 UTC 版)

仲代達矢」の記事における「俳優の道へ」の解説

高校卒業後、定職就けず、大井競馬場鑑札持たない違法な予想屋取り締まる警備員をしたり、学歴不問ということボクシングの三回戦ボーイの職にありつくなどしながら映画館芝居見物に通う。そんな日々の中、俳優座公演観劇した際、千田是也演技感銘を受け、1952年昭和27年)、俳優座養成所第4期生として入所同期生には佐藤慶佐藤允中谷一郎宇津井健らがいた。なお、このうち佐藤允仲代中谷の3人は、後年岡本喜八監督作品常連として喜八一家と呼ばれるようになり、佐藤慶も2本の岡本作品出演している。同期生の中で新東宝入社した宇津井とのみ仕事上やや疎遠になったが、宇津井とは性格違ったものの仲が良く映画七人の侍』では、ともに浪人役のエキストラとして共演している。仲代バー働きながら役者修業励んだが、この頃俳優座へ通うための電車賃を節約するために徒歩移動し毎日同じ服を着て、人とはあまり話さず、目だけが異様な光を帯びていたという。 養成所時代に『七人の侍』(1954年)で、セリフなしの浪人役をつとめて映画デビュー養成所から仕出し派遣された数秒間エキストラ出演で、本来は出演作カウントすべきものではないが、この出演時代劇歩き方ができなかった仲代監督黒澤明をいら立たせ、「俳優座では歩き方教えないのか」と罵られワンカットに朝の9時から午後3時までの半日がかりの撮影となってしまい、最終的に「いいや。OKとなった黒澤はこのことをすぐ忘れたらしいが、仲代にとって強烈な思い出となり、これが映画俳優仲代スタートとしてしばしば引き合い出されることとなった1955年昭和30年)、養成所卒業前年既に初舞台)、俳優座入団した芸名の「達矢」は射手座生まれにちなんで「的に達する矢のごとく」と異母姉が命名した同年秋の公演幽霊』で抜擢された。この『幽霊』を見た女優月丘夢路推薦で、月丘の夫である映画監督井上梅次から依頼舞い込み映画『火の鳥』1956年日活)で月丘の相手役という大役をつとめ、映画も本デビューを果たす。翌年には映画黒い河』(1957年)における冷酷なヤクザ通称人斬りジョー演技でも存在感を示す。 1957年昭和32年)、俳優座所属女優(まもなく演出家脚本家転身)・宮崎恭子結婚

※この「俳優の道へ」の解説は、「仲代達矢」の解説の一部です。
「俳優の道へ」を含む「仲代達矢」の記事については、「仲代達矢」の概要を参照ください。

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