俳優の道へ
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高校卒業後、定職に就けず、大井競馬場で鑑札を持たない違法な予想屋を取り締まる警備員をしたり、学歴不問ということでボクシングの三回戦ボーイの職にありつくなどしながら、映画館・芝居見物に通う。そんな日々の中、俳優座公演を観劇した際、千田是也の演技に感銘を受け、1952年(昭和27年)、俳優座養成所に第4期生として入所。同期生には佐藤慶・佐藤允・中谷一郎・宇津井健らがいた。なお、このうち佐藤允、仲代、中谷の3人は、後年岡本喜八監督作品の常連として喜八一家と呼ばれるようになり、佐藤慶も2本の岡本作品に出演している。同期生の中で新東宝に入社した宇津井とのみ仕事上やや疎遠になったが、宇津井とは性格が違ったものの仲が良く、映画『七人の侍』では、ともに浪人役のエキストラとして共演している。仲代はバーで働きながら役者修業に励んだが、この頃、俳優座へ通うための電車賃を節約するために徒歩で移動し、毎日同じ服を着て、人とはあまり話さず、目だけが異様な光を帯びていたという。 養成所時代に『七人の侍』(1954年)で、セリフなしの浪人役をつとめて映画デビュー。養成所から仕出しで派遣された数秒間のエキストラ出演で、本来は出演作にカウントすべきものではないが、この出演で時代劇の歩き方ができなかった仲代は監督・黒澤明をいら立たせ、「俳優座では歩き方も教えないのか」と罵られ、ワンカットに朝の9時から午後3時までの半日がかりの撮影となってしまい、最終的に「いいや。OK」となった。黒澤はこのことをすぐ忘れたらしいが、仲代にとって強烈な思い出となり、これが映画俳優・仲代のスタートとしてしばしば引き合いに出されることとなった。 1955年(昭和30年)、養成所を卒業(前年既に初舞台)、俳優座に入団した。芸名の「達矢」は射手座生まれにちなんで「的に達する矢のごとく」と異母姉が命名した。同年秋の公演『幽霊』で抜擢された。この『幽霊』を見た女優・月丘夢路の推薦で、月丘の夫である映画監督・井上梅次から依頼が舞い込み、映画『火の鳥』(1956年、日活)で月丘の相手役という大役をつとめ、映画でも本格デビューを果たす。翌年には映画『黒い河』(1957年)における冷酷なヤクザ・通称人斬りジョーの演技でも存在感を示す。 1957年(昭和32年)、俳優座所属の女優(まもなく演出家、脚本家に転身)・宮崎恭子と結婚。
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