佐倉城築城以前
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天正18年(1590年)、関東に入国した徳川家康は、各地に諸将を配置した。ただし佐倉地域については諸説がある。 久野宗能が1万3000石で入封したとの説。 三浦義次(三浦重成)が佐倉に1万石で入封したとする説。下総三浦藩参照。 文禄2年(1593年)、徳川家康は5男の武田信吉を佐倉に4万石で配置する。事典類によってはここからを「佐倉藩」と扱う。慶長7年(1602年)に信吉が常陸国水戸藩に移ると、6男の松平忠輝が5万石で入るが、翌慶長8年(1603年)に信濃国川中島へ転封した。忠輝が佐倉の領主であったのはわずか40日であった。 慶長11年(1606年)小笠原吉次が尾張国犬山藩から入る。以後、佐倉藩は譜代大名の藩として続くことになる。小笠原吉次は慶長13年(1608年)常陸国笠間藩へ移封した。 土井利勝によって現在の佐倉城が築城される以前、「佐倉」地域の支配拠点がどこにあったのかについては、以下のような説があるもののはっきりしない。 本佐倉城に置かれたという説。『国指定史跡ガイド』は、本佐倉城は千葉氏改易後に徳川氏によって接収され、その後は佐倉藩の藩庁が置かれたと記す。『日本の城がわかる事典』は、徳川氏による接収後一時は廃城とされたものの、小笠原吉次・土井利勝が本佐倉城に入って再興され、佐倉城への藩庁移転と一国一城令により廃城されたと記す。 本佐倉に陣屋が置かれたとする説。大堀陣屋(酒々井町上本佐倉、佐倉市大佐倉字北大堀)と特定する説。地元には武田信吉が建設した館との伝承があり、「万千代殿屋敷」(万千代は武田信吉の幼名)との名も伝えられている。柴田(1986)によれば、大堀陣屋は千葉氏滅亡後に入封した徳川家臣(三浦義次や武田信吉)が本佐倉城を廃して本拠を移したが、慶長8年(1603年)に廃されたとしている。「本佐倉北大堀遺跡」として発掘調査が行われているが、17世紀初頭以前にさかのぼる遺物が出土している。16世紀には既に使用されていたとみられ本佐倉城に対する居館の可能性もある。 現在の佐倉城の地点にあった鹿島城(鹿島台城)に置かれたとする説。現在の佐倉城の地点には、かつて千葉氏も築城を試みた。千葉親胤が鹿島幹胤に築城を命じたが中断(ここから「鹿島台」と呼ばれるという)、その後千葉邦胤も築城を試みたが未完成のまま頓挫したという。『角川日本地名大辞典』によれば、小笠原吉次は鹿島城に入ったという。
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