会に所属していた日本の殉教者たち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 07:59 UTC 版)
「ロザリオ・コンフラタニティ」の記事における「会に所属していた日本の殉教者たち」の解説
以下が1867年7月7日に福者に列福されたロザリオ・コンフラタニティのメンバーたちである。多くが日本205名の殉教者として知られている。 アンドレス村山徳安 (1619年殉教)モラレス神父を匿う役割をした。 コスメ竹屋 (1619年殉教)韓国人でドミニコ会のオルスッチ神父とサント・ドミンゴ神父を匿う役割をした。 ジョン・ショウザエモン・ショウン (1619年殉教)メナ神父を手厚くもてなした。 トマス籠手田きゅうに (1619年殉教)彼は平戸の著名な籠手田家の出身であった。アンドレス村山徳安と同じ通りに住んでいてモラレス神父を通報しなかったため1619年11月27日に斬首刑により殉教。 アントニオ木村 (1619年殉教)彼は長崎の役人・末次平蔵の親戚であった。コスメ竹屋と同じ通りに住んでいた。1619年11月27日、オルスッチ神父とサント・ドミンゴ神父の通報をしなかったため24歳の若さで斬首刑により殉教。 ミゲル竹下 (1619年殉教)アントニオ木村の隣人であった。役人たちに宣教師たちについて知らせなかったため、1619年11月27日、27歳のときにアントニオとともに斬首刑により殉教。 レオン中西 (1619年殉教)前述した者たちと同じ通りに住んでいた。彼らのようにオルスッチ神父とサント・ドミンゴ神父を匿った。1619年11月27日、27歳のときに木村と竹下とともに斬首刑により殉教。 パブロ永石 (1622年殉教)ドミニコ会メンバーたちに奉仕していた伝道師たちの最長年齢であった。1622年9月10日に殉教した。 バルトロメ関 (1619年殉教)オルスッチ神父とサント・ドミンゴ神父が隠れていた通りに住んでいた。彼らを通報しなかったため1619年11月27日に斬首刑により殉教。.ジョアン岩永 (1619年殉教)バルトロメ関と同じ日に同じ理由により斬首刑により殉教。 アレホ中村 (1619年殉教)関と岩永と同じ理由で斬首刑により殉教。 マチアス小坂 (1619年殉教)メナ神父が隠れいてた通りに住んでいた。通報しなかったため1619年11月27日に斬首刑により殉教。 ラモン松岡みよたろ (1619年殉教)小坂と同じ日に同じ理由で斬首刑により殉教。 マチアス中野みよたろ (1619年殉教)メナ神父を匿ったため上記メンバーたちとともに斬首刑により殉教。 ジョアン本山 (1619年殉教)メナ神父を匿ったため上記メンバーたちとともに斬首刑により殉教。 ガスパル上田彦次郎とアンドレス吉田 (1617年殉教)2人は捕らえられ1617年10月1日に斬首刑により殉教。彼らはナバレテ神父とアヤラ神父の宿主をしていた。 シモン清田木斎 (1620年殉教)シモンはイエズス会の神父たちとともに伝道師をしていた。そしてオルファネル神父とルエダ神父の宿主であった。1620年8月16日、シモン、妻のマグダレナ、従僕トマス源五郎と妻マリア、息子のサンチャゴは大分の小倉で殉教した。彼らはみなロザリオ・コンフラタニティのメンバーであった。 ホアキム・ディアス平山常陳 (1622年殉教)ホアキムは、1620年8月4日にズニガ神父とフロレス神父を日本へ渡航させた船の船長であった。ドミニコ会士たちの日本渡航を手助けしたため死刑となった。長崎で1622年8月19日に上記の2人の宣教者たちとともに火で生きながら焼かれて死に至った。殉教の前に彼の目の前で協力者だったら12人の乗組員も斬首刑により殉教した。すべての乗組員も船長と同じくロザリオ・コンフラタニティのメンバーであった。彼らはみんな列副された。彼らの名前は以下となる。 レオン助右衛門(船の甲板長)、ジョアン宮崎宗右衛門(船上の公証人)、ミゲル・ディアス(船員)、マルコス竹之島新右衛門(船員)、トマス小柳(船員)、アントニオ浜田(船員)、サンチャゴ松尾でんし(船員)、ロレンソ六右衛門(船員)、パブロ三吉(船員)、ファンやご庄衛門(船員)、バルトロメ茂兵衛(船員)、ファン永田又吉(船員)。 ルシア・デ・フレイタス (1622年殉教)ルシアは、ポルトガル人フェリペ・デ・フレイタスの妻であった。その時、夫は日本に不在であった。彼女は長崎でロザリオ・コンフラタニティの財務係をしていた。また、熱心なフランシスコ会第三会員であった。宣教者たち、特にフランシスコ会宣教師たちの宿主をよくしていたので告発され、逮捕され、生きたまま火刑に処された。 アントニオ三箇 (1622年殉教)アントニオは、イエズス会の伝道士であったがキリスト教徒であることを告白し、火刑により殉教した。彼は、棄教したという噂を打ち消すために公に信仰を告白した。妻のマグダレナもキリスト教徒でロザリオ・コンフラタニティのメンバーであった。そのため彼女も彼の目の前で斬首刑により殉教した。 アントニオ「高麗人」 (1622年殉教)「高麗人」と呼ばれていたアントニオは、イエズス会の熱心な支持者であった。セバスチャン木村神父が彼の家に隠れていたときもあった。アントニオは勇敢に宣教者たちに宿を供給すると宣言していた。また、当時のドミニコ会の地方の司教代理だったカステレット神父のリクエストによりドミニコ会士たちの宿主を務めた。アントニオの妻ドミンガもロザリオ・コンフラタニティのメンバーであった。彼女と彼らの2人の息子たち(フアン12才とペドロ3才)は、アントニオの目の前で斬首刑により殉教した。その後、彼も火刑により殉教した。 他には列副されなかった殉教者たちもドミニコ会の記録には掲載されている。
※この「会に所属していた日本の殉教者たち」の解説は、「ロザリオ・コンフラタニティ」の解説の一部です。
「会に所属していた日本の殉教者たち」を含む「ロザリオ・コンフラタニティ」の記事については、「ロザリオ・コンフラタニティ」の概要を参照ください。
- 会に所属していた日本の殉教者たちのページへのリンク