企業合同による飛躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 22:39 UTC 版)
1937年5月、同業者の中谷作次郎、岩崎正治と合弁で資本金10万円の「東宝自動車株式会社」を設立し、車両数100台を数える大手事業者となる。1938年4月には資本金45万円の「日東自動車株式会社」となり、貸ガレージや自動車修理業などを営業種目に加えた。折からの日中戦争による戦時経済統制が進行する中、不要不急と見なされたハイタク業界は企業合同に生き残りを賭ける以外の選択肢を失い、日東自動車には中小タクシー会社が続々と吸収合併されていった。 1945年には東京のタクシー業界は俗に「大・日本・帝・国」と呼ばれる4大会社に統合されることとなったが、日東が京成電鉄が設立した帝都自動車交通、山崎種二のちに小佐野賢治がバックについた国際自動車、業界大手の大和自動車交通とともに生き残ったのは、小山亮元代議士の紹介で、当時運輸通信大臣から東京急行電鉄の会長に返り咲いたばかりの五島慶太を紹介され、東急系の東京タクシー300台との連携に成功し東京横浜電鉄(現・東急電鉄)系の「東京タクシー株式会社」を傘下に収めることに成功したためで、東急の事実上の創業者・五島慶太との盟友関係がここに成立した。川鍋は「信仰的なまでの愛情」をもって五島慶太を敬愛していたとされるが、五島慶太による川鍋への後援も非常に大きく、後年には周囲から、小佐野賢治、大川博とともに「五島門下生」と並び称されるほどであった。
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