代表選出問題と高野岩三郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/13 01:27 UTC 版)
「国際労働会議代表反対運動」の記事における「代表選出問題と高野岩三郎」の解説
高野岩三郎は明治期労働運動の先覚者であった高野房太郎の弟であり、社会政策学会では左派の代表として労働問題を論じ、また友愛会にとっては顧問格・相談役ともいうべき存在であった。そのため労働者代表選出問題においては微妙な立場に立たされ、同僚教授の矢作栄蔵(同じく社会政策学会会員)や吉野作造・吉野信次(農商務省書記官)の兄弟、河合栄治郎(同じく農商務省参事官)らの説得によりいったんは代表を引き受けたものの、今度は鈴木ら友愛会幹部および福田徳三・森戸辰男・櫛田民蔵など友愛会に近い立場の知人・同僚から強く辞退を勧奨された。これに対し吉野作造は顧問の資格で会議に参加するよう高野を慫慂したが、結局のところ高野は労働団体からの支持・合意を取りつけられなかったゆえをもって代表を辞退した。さらに9月30日社会的に迷惑をかけたとして東京帝大教授も辞任、10月8日経済学部教授会もこれを承認した。 この事件は、当時の知識人運動にさまざまな影響をもたらした。民本主義を標榜する知識人統一戦線ともいうべき黎明会では高野の代表受諾をめぐって、有力な会員である吉野が賛成、福田・森戸が反対したことで、同会内部の分裂は拡がり活動は衰退に向かっていった。また東大を辞職した高野が大原社会問題研究所所長に就任し活動の軸足を同所に移したことから、彼が中心的な役割を占めていた社会政策学会も協調会への協力をめぐって会員の対応が分かれ、学会としてはやはり衰退に向かった。農商務省の少壮官僚であった河合栄治郎は、労働組合公認など労働政策の改革を志していたが、この問題に関し知識人が統一した態度がとれなかったことに絶望し、辞表を提出するとともにこの経緯についての暴露的文章を公表した。また河合によると、高野の東大復職(結局実現しなかった)をめぐる人事によって東大経済学部内に派閥が形成され、のちの平賀粛学問題の遠因になったとされる。
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