他の作曲家との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 03:45 UTC 版)
「フランツ・シューベルト」の記事における「他の作曲家との関係」の解説
シューベルトは幼いころからフランツ・ヨーゼフ・ハイドンやミヒャエル・ハイドン、モーツァルトやベートーヴェンの弦楽四重奏を家族で演奏し、コンヴィクトでもそれらの作曲家の交響曲をオーケストラで演奏、指揮していた。 シューベルトは当時ウィーンでもっとも偉大な音楽家だったベートーヴェンを尊敬していたが、それは畏怖の念に近いもので、ベートーヴェンの音楽自体は日記の中で「今日多くの作曲家に共通して見られる奇矯さの原因」としてむしろ敬遠していた。シューベルトは主題労作といった構築的な作曲法が苦手だったと考えられているが、そういったベートーヴェンのスタイルは本来シューベルトの作風ではなかった。 むしろシューベルトが愛した作曲家はモーツァルトである。1816年6月14日、モーツァルトの音楽を聴いた日の日記でシューベルトはモーツァルトをこれ以上ないほど賞賛している。またザルツブルクへの旅行時、聖ペーター教会のミヒャエル・ハイドンの記念碑を訪れ、感動とともに涙を流したという日記も残されている。 コンヴィクトからの友人ヨーゼフ・フォン・シュパウンが書き残した回想文は、シューベルトが11歳のとき、「ベートーヴェンのあとで、何ができるだろう」と言ったと伝えている。さらにオーケストラでハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの交響曲を演奏したときにはハイドンの交響曲のアダージョ楽章に深く心が動かされ、モーツァルトのト短調交響曲(おそらくK550)については、なぜか全身が震えると言い、さらにメヌエットのトリオでは天使が歌っているようだと言った。ベートーヴェンについてはニ長調(第2番)、変ロ長調(第4番)、イ長調(第7番)に対して夢中になっていたが、のちにはハ短調(第5番)の方が一層優れていると言ったと伝えている。 ウェーバーとも生前に親交があった。1822年のウィーンでの『魔弾の射手』上演の際に知り合い、シューベルトのオペラ『アルフォンソとエステレッラ』をドレスデンで上演する協力を約束したが、のちの『オイリアンテ』についてシューベルトが、「『魔弾の射手』の方がメロディーがずっと好きだ」と言ったために、その約束は果たされなかった。 シューベルトはのちの作曲家に大きな影響を与えた。『大ハ長調交響曲』を発見したシューマンは言うに及ばず、特に歌曲、交響曲においてメンデルスゾーン、ブラームス、ブルックナー、ヨーゼフ・シュトラウス、ヴォルフ、リヒャルト・シュトラウス、ドヴォルザークなど、シューベルトの音楽を愛し、影響を受けた作曲家は多い。
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