人口が多かった要因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 02:44 UTC 版)
近代以前の日本は都市化が進んでおらず、住民の9割近くが農業によって生活を成り立たせていた。そのため、稲作に適した広大な越後平野を擁して収穫高が大きい新潟県は人口涵養能力が高かった。 さらに19世紀以前の輸送手段は海運が主流であり、とくに本県が接する日本海を航行する北前船は、太平洋よりも安全かつ安価な航行が可能であった。このため、本県を含む日本海側の地域は物流によって栄えた。1878年(明治11年)の人口統計では、同じく日本海側の金沢が日本で第5位の都市であり、富山も日本第9位の都市であった(なお新潟市は上位10位圏外だった)。 また、著述家の辰井裕紀によれば、新潟県や北陸地方では浄土真宗などの仏教の信仰が強かった。そのため、日本中の農村で多くみられた「間引き」(新生児を親が殺すこと。貧困による)や「身売り」(少女を親が売春宿へ売り払うこと。貧困による)が本県や北陸では非常に少なく、人口が増加しやすかったのだという。 しかし、明治以降における工業化の進行に伴って太平洋ベルト地帯が発展し、また鉄道の普及に伴って海運が衰退していった。それに伴い、本県を含む日本海側からは東京・大阪といった太平洋側の大都市や、開拓地の北海道へと人口が流出していった。
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