人事問題と留守政府
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 04:15 UTC 版)
むしろ、政策以上に紛糾と対立を引き起こしたのは財政と人事を巡る問題であった。留守政府は岩倉使節団派遣中は人事を凍結する約束であり、西郷隆盛に調整役としての期待が大きかったが、西郷自身が「強兵」を維新の主軸に置いており、「強兵」を推進しようとする山縣有朋に対しては自説の士族主体の志願兵構想を撤回して彼の構想する徴兵制の確立に協力し、山城屋事件で山縣が辞任に追い込まれた時でさえ、これを擁護して山縣追い落としを図る薩摩出身者を宥めている。その一方で「富国」を推進する大蔵省(大隈・井上・渋沢栄一ら)に深い不信感を抱いていたため、正院や他の省庁との財政を巡る対立で井上・渋沢が辞任に追い込まれた際にもこれを止めなかった(井上の場合には尾去沢銅山を巡る疑惑もあったとしても)。その上、山縣辞任後その欠を補うため自ら元帥に就任(この場合は軍総司令官の意。これは軍権の掌握と解された)し、その政治力欠如を補うために後藤象二郎・江藤新平・大木喬任を参議に追加した(ただし、後藤が左院議長、当時の各省の卿の中で江藤・大木のみが現職参議ではない例外の存在であったこと、大久保帰国後に卿と参議を兼務させる方針を改めて打ち出していることなど、必ずしも合理性が無い訳ではない)ことも、国外にいて情報入手が限られていた大久保・木戸の不信感を高めたのである。
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