亡命計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 15:17 UTC 版)
「ミハイル・アレクサンドロヴィチ (1878-1918)」の記事における「亡命計画」の解説
3月11日、ミハイルとジョンソンはウラジーミル・レーニンの指示でペルミに追放される。二人は窓を外された暖房のない貨物列車に乗せられ、8日間かけてペルミに移送された。当初はホテルの一室に監禁されたが、2日後に現地のチェーカーによって投獄された。ナターリアはペトログラードで人民委員にミハイルの釈放を訴え、4月9日にペルミでの行動の自由を認めさせた。これにより、ミハイルはジョンソン、従者ワシーリー・チェリュシェフ、運転手ボルノフと共に最高級ホテルのスイートルームに移された。また、ナターリアはゲオルギーを守るため、3月中にゲオルギーの乳母やデンマークの外交官と接触し、ロシアからの脱出の準備を進めた。5月、ナターリアは自身とミハイルの旅行許可証を取得した。彼女は友人のプチャーチン侯爵、マルガリータ・アバカノヴィチと共にペルミに向かい、夫と再会して一週間同地で過ごした。 同じ頃、ブレスト=リトフスク条約に基き、捕虜のオーストリア=ハンガリー帝国への移送が開始された。また、チェコスロバキアの独立運動に加わるため、チェコ軍団もアメリカ合衆国経由の海路を経て西部戦線に参加しようとウラジオストクに向かっていた。しかし、停戦後もドイツ軍とチェコ軍団との戦闘は続き、チェコ軍団がペルミに向かう中でシベリア鉄道沿線を掌握したため、ドイツはボリシェヴィキ政権に対してチェコ軍団の武装解除を要求するなど情勢は不安定なものとなっていた。ミハイルとナターリアは、チェコ軍団の接近によってペルミに閉じ込められることを危惧し、5月18日にナターリアはペルミを離れた。6月に入ると、再びミハイルの胃の病状が悪化した。
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