井伊政権と戊午の密勅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 03:51 UTC 版)
大老に就任した井伊直弼は1858年(安政5年)5月、紀伊藩の徳川慶福(徳川家茂)を将軍後継に決定して将軍継嗣問題を決着させ、一橋派幕臣を失脚させた。一橋派諸大名は井伊に対して違勅調印を批判するが、もとより一橋派は通商論が優勢であり、条約の違勅調印を主導したのも実際には堀田ら一橋派幕臣であったから、結局井伊を論破することが出来ず、逆に隠居・謹慎などの処分を受けてしまう。 アメリカとの通商条約調印後、幕府はフランス、イギリスなどと同様の条約を次々と結んだ(安政五カ国条約)。これら井伊の政策を不服とする孝明天皇は、水戸藩はじめ御三家、御三卿などに対して戊午の密勅を下した。この中で天皇は幕閣、外様大名、譜代大名らの協調による「公武御合体」を要求しており、密勅は万一の場合の出兵依頼も含めて各藩に回送されたが、のちの弾圧に際しても薩摩藩・長州藩を含め各藩は動かなかった。一方、これを徳川斉昭(前水戸藩主)らによる陰謀とみた井伊は反対派に対する大弾圧を行い、即時攘夷を求める天皇を屈服させた(安政の大獄)。井伊の強引な政治は各方面の反感を買うところとなり、1860年(安政7年)に水戸・薩摩浪士により井伊は暗殺される(桜田門外の変)。
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