五松居時代 画壇での活躍と「林響」誕生 ―大正期
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南品川には新たな住まいと画室「五松居」を構え、各会派へ参加、また林響を後援する画会も次々と結成される。画会はどれも盛況で、林響は会員のため彼らの要望に応えつつ、自身の画風で一定以上の水準をもつ作品を次々と制作、画家としての基礎体力を養う。一方、大量の作画は林響を疲弊させ、画風も大観や紫紅、あるいは橋本関雪といった他の画家の影響下から抜け出しているとはいえず、次第に静かに画想を練り、深い修養を得たいという欲求が募っていく。そのなかで、浦上玉堂や良寛、明清時代の文人画を学び、新たな境地を目指していく。大正8年(1919年)天風から林響への画名変更もこの頃である。 林響改号後は、画会を組織せず画壇とやや距離を起きながらも、如水会という発表の場を組織する。一方で旅先に新たな画趣を求め、天竜二俣や大島、南房総、各地の湖沼を巡っている。こうしたなか大正11年(1912年)第4回帝展に出品した《林の中》(現存せず)が推薦となる。帝展での推薦は、特選を経た画家から選ばれるのが通例で、一足飛びに推薦を受けるのは異例で、当時称賛と批判も含めた多くの反響があった。大正12年(1923年)の関東大震災では家や家族に大きな被害はなかったが、この頃から都会の喧騒を離れようと準備を進める。大正14年(1925年)3月、清初に活躍した文人画家・石濤の「黄山八勝画冊」を苦心して入手する。早速、これを画家仲間たちに披露し、伊東深水はこれを見て感激の涙を流したという。昭和期の林響画に見られる、水彩画のような明るい色彩や点描や擦筆の多用などは、「黄山八勝画冊」からの影響とも考えられる。ところが、2年もたたぬうちに住友寛一にこの画冊を手放し、現在は泉屋博古館が所蔵する(重要文化財)。
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