五松居時代 画壇での活躍と「林響」誕生 ―大正期とは? わかりやすく解説

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五松居時代 画壇での活躍と「林響」誕生 ―大正期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:56 UTC 版)

石井林響」の記事における「五松居時代 画壇での活躍と「林響」誕生 ―大正期」の解説

南品川には新たな住まい画室「五松居」を構え、各会派参加、また響を後援する画会次々と結成される画会はどれも盛況で、響は会員のため彼らの要望応えつつ、自身画風一定上の水準をもつ作品次々と制作画家としての基礎体力を養う。一方大量作画響を疲弊させ、画風大観紫紅、あるいは橋本関雪といった他の画家影響下から抜け出しているとはいえず、次第静かに画想を練り、深い修養得たいという欲求募っていく。そのなかで浦上玉堂良寛明清時代文人画学び新たな境地目指していく。大正8年1919年天風から響への画名変更この頃である。 改号後は、画会組織せず画壇とやや距離を起きながらも、如水会という発表の場組織する一方で旅先新たな画趣求め天竜二俣大島南房総各地湖沼巡っている。こうしたなか大正11年1912年第4回帝展出品したの中》(現存せず)が推薦となる。帝展での推薦は、特選経た画家から選ばれるのが通例で、一足飛び推薦を受けるのは異例で、当時称賛と批判含めた多く反響があった。大正12年1923年)の関東大震災では家や家族大きな被害はなかったが、この頃から都会の喧騒離れよう準備進める。大正14年1925年3月清初活躍した文人画家石濤の「黄山八勝画冊」を苦心して入手する。早速、これを画家仲間たち披露し伊東深水はこれを見て感激の涙を流したという。昭和期響画に見られる水彩画のような明る色彩点描擦筆多用などは、「黄山八勝画冊」からの影響とも考えられる。ところが、2年もたたぬうちに住友一にこの画冊を手放し、現在は泉屋博古館所蔵する重要文化財)。

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