二社並存期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/10/13 03:28 UTC 版)
仙南軌道の経営は、主に現在の蔵王町や福島県在住の資産家が中心となって行われた。懸案となっていた永野駅以遠の路線ルートについては、旧日本製鉄時代の予定を変更。永野駅から現在の蔵王町永野地区、宮地区、白石市白川地区を通り、省線北白川駅へと至るものとした。しかし程なくして現在の大河原町、村田町在住の資産家が中心となり、「城南軌道」が発足した。この会社は省線大河原駅から、現在の村田町中心部を経由し、蔵王町平沢地区から、永野地区・駅へと至る路線ルートを想定していた。この計画は仙南軌道と同様、遠刈田温泉と省線の駅とを結ぶことをその目的としており、そのため両社の路線計画は完全に重複することとなった。この"競願"という事態に認可を行う立場の宮城県は苦慮し、そののち約2年もの時間が調停のために費やれることとなった。結局、当時の郡長の奔走によって調停は成立。仙南軌道が遠刈田 - 永野間を、城南軌道が永野 - 大河原間をそれぞれ開業させることとし、1915年(大正4年)に再申請を行って両社とも開業に漕ぎ着ける運びとなった。 しかし請願を行った両社ともに、会社の設立から長く続いた紆余曲折がその経営に影を落とす結果となった。 仙南軌道は他の近代的な交通網から孤立して存在することとなり、馬車や自動車による連絡こそあったもののその業績は伸び悩まざるを得なかった。また永野駅以遠の路線計画が凍結となったことで事態を根本的に解決する望みも絶たれ、会社の発起人と社長が共に持ち株を城南軌道に売却して引退する羽目となった。 城南軌道は開業の実現を危ぶむ声が出資者の間で高まり、資本金の返還を求められてやむなく減資を行わざるを得ない事態となったうえ、この騒動の影響で開業予定がさらに遅れることとなった。 これら事情のために両社の間ではかなり早い時期から合併の機運が高まっていたが、1920年(大正9年)、ついに城南軌道が仙南軌道を吸収すると言う形で両社の合併が行われるに至った。 そして翌年の1921年(大正10年)に、社名を「仙南温泉軌道」と改称。さらに1922年(大正11年)には永野駅 - 村田駅間のレールが繋がったことで、最初の柴田鉄道の計画から約20年をかけ、ようやく目的が達成されることとなった。
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