九重独立問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 08:34 UTC 版)
ソビエト連邦公演からの帰国後、佐田の山晋松の岳父となって後継者に指名し、土地建物の名義も全て「市川 晋松」(佐田の山)に書き換えた。これは周囲の「今度こそ後継者は九重だろう」という予想を完全に覆すものとなった。これに対し、1967年1月場所の直前に、横綱へ昇進していた佐田の山晋松への後継決定を不服として、九重が弟子13名を連れての独立を申し出た。出羽海は悩んだあげく即答を避け、1月場所終了後の回答を約束した。1月場所の終了後の1月31日、出羽海一門の全年寄を出羽海部屋大広間に呼び集め、九重部屋の創設は「出羽海一門からの破門」を条件に認めると回答、北の富士勝昭を筆頭に10名(3名は親による反対を理由に認めず)の現役力士が高砂一門へ移籍した。 破門とする理由は出羽海部屋中興の祖にして、一門の創設者である常陸山谷右衛門の「不許分家独立」の不文律が背景にあることは間違いないが、破門までして独立を許した経緯については諸説あり、「九重の希望は叶えたいが、一門の掟には背けない中での苦渋の決断」「北の富士が移籍することで対佐田の山戦が可能となり、好取組を増やすため」といった好意的な見方があるが、その一方で「先代から『出羽海』を継承した際に『独立したい者はいないか』と言ったのに不服のある者を一門から追い出す狙いがある」といった否定的な見方もあった。さらに、北の富士に対しては「本当に(移籍で)いいのか?残ってもいいんだぞ」と言ったとも伝わり、これが事実なら「対佐田の山戦を可能にして好取組を増やす」という目的は否定されることとなる。先代・出羽海の遺族は九重を支持していたことから、それに影響を受けたのは間違いないと思われる。なお、一門からの破門を条件に独立を許された例としては、立浪一門へ移籍した武隈部屋が存在するが、今回の九重独立騒動との関連は不明である。
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