丹羽・古賀派時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/03 18:15 UTC 版)
「宏池会 (古賀派)」の記事における「丹羽・古賀派時代」の解説
旧橋本派が津島派、旧亀井派が伊吹派、旧小里派が谷垣派へと、領袖不在だった他派がそれぞれ新体制へと移行していく中、これ以上派閥会長不在の状態が続くのは好ましくないとして、「旧堀内派」も新たな会長による体制への移行構想が浮上し、2006年2月に丹羽・古賀の両名が新設の共同代表に就任した。堀内会長退任後、派内に、小泉政権に一定の理解を示す丹羽元厚相と、あくまでも反小泉を貫く古賀元幹事長をそれぞれ派閥会長に推す二つのグループが形成され、派の分裂を防ぐための苦肉の策で丹羽・古賀両名をトップとする「二頭立て」となった。 2006年総裁選で安倍を支持した丹羽・古賀派は、結果的に党三役の一角と4人の閣僚を送り込み、主流派に返り咲いた。しかし、丹羽が総務会長に就任し、形式的に派閥を離れると、太田誠一・二田孝治ら派内の古賀系議員が、半ば強引に古賀を会長に押し上げた。丹羽には派閥総会の数時間前に太田から「古賀を会長にする」と電話で告げられたのみで、クーデター的に会長の決定が行われたことに、鈴木俊一・竹本直一ら、丹羽に近く古賀とは一線を画す議員たちは猛反発したが、「丹羽が総務会長を務めている間の暫定措置で、安倍政権には協力的な立場をとる」と古賀が約束したことで、派内の大半は静観の姿勢を取った。だが、丹羽が総務会長を退任して派閥に復帰した後も派閥会長に戻ることは無く、常任顧問という名誉職に追いやられたことで、上記の約束は反故にされたと思われる。 上記のような経緯を考慮してか、古賀の会長就任以降は報道機関の多くが派閥名を丹羽・古賀派から古賀派に切り替えたが、読売新聞社のみは、紙上での同派の表記を古賀派ではなく丹羽・古賀派で通していたが、2007年9月頃から古賀派に切り替えた。なお、丹羽は読売新聞記者出身である。 2006年12月、かつての領袖である堀内光雄が復党し(郵政造反組復党問題)、堀内は派の最高顧問に就任した。翌年9月26日に堀内は名誉会長に就任した。 2007年9月の福田康夫政権発足で、古賀は当時の党四役のひとつである党選挙対策委員長に就任した。古賀は入閣待望組の岸田文雄や上川陽子を福田内閣に押し込み、選挙対策副委員長に菅義偉を起用することで、派内の求心力を高めた。古賀は派閥離脱を宣言したものの、太田会長代行に留守を任せ、実権を握り続けている状況となった。
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