中原の文化の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 16:02 UTC 版)
早くも商周の時期より、嶺南から、中原や長江流域への政治・経済・文化などの面での交流は存在していた。戦国時代には、嶺北から漢人が多数来るようになった。商売や交易で来た者の他には、戦乱から逃れてきた者、嶺南への征服戦争でそのまま定住した者などがおり、その数も徐々に増えた。 しかし大規模な嶺南への移住の動きは、秦が嶺南をも支配下に入れて以後のことになる。百越の人々も、北から来る漢人に次第に同化されていったが、方言や風習などに大きな違いは残った。 唐の開元年間、宰相張九齢は大庾嶺を超える幅の広い新道を造り、これが嶺南と嶺北の間の主要な道となった。この道ができて以後、嶺南には中原の文化や財貨が行き渡るようになり、嶺南から優れた人材が中央に進むようになった。また、その一方で華北・華中から嶺南への人口移動も何度も起こり、北方の生産技術が次々に嶺南に伝えられるようになった。北から嶺南に逃れた人々の中でも、客家は特に大きな集団となっている。 そのほか、流刑で多数の人々が中央から嶺南に追いやられたことも、中原と嶺南各地との文化的交流を進めるきっかけになった。劉禹錫、寇準、秦観、柳宗元、韓愈、湯顕祖など名のある学者や政治家が嶺南に流され、中にはそのまま嶺南で没した者もいた。彼らは嶺南の開発や人材教育を手がけ、嶺南から士大夫を輩出するようにもなった。明中期以降は、広東・新会に陳献章を始祖とする嶺南学派が現れ、伝統にとらわれない儒学研究を行っている。
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