世界興行、引退
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その後も国内のみならずシンガポール・香港・韓国・アメリカ・タイといった諸外国の強豪選手と対戦、アグレッシブな重いパンチとヒジ打ち、多彩強力なキックで激闘を重ねた。 1990年(平成2年)、キック人生最後の試合は世界大戦興行で、またしてもライト級より1階級重いアメリカ海軍ウェルター級のトップランカーとの対戦となった。ゴングが鳴るやいなや、互いの激しい攻防戦の末、元木は狙い澄ましたかのような鋭い左ストレートを当て1ラウンドでKO勝ち。元木はデビュー戦から最後の最後までノックアウト勝利に拘り、キックボクサーとして「客に魅せられる美学」を常に心掛けていたという。 元木は、1980年のデビュー戦の試合以来一度もマウスピースを装着したことがなかったが、これは相手からのヒットを許さないという自信の表れだったのか、持ち前の気の強さだったのか、拘りだったのかは、最後まで本人から明言されなかった。 しかし激戦の代償として故障箇所が増えたことに加え、通りすがりに事故を目撃して人命救助に入った際、ボクシング人生で経験したよりも重い傷を受ける。これらが早期引退の最大要因となり、1991年(平成3年)10月19日、後楽園ホールにおいて引退式が挙行され、28歳にて引退。通算24戦19勝 (18KO) 5敗の戦績を残し、13年間のキック人生に幕を降ろした。 目黒ジム時代からの後輩には、鴇稔之(元・MA日本(マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟)バンタム級王者)、新妻聡(元WKBA世界スーパーライト級王者)、小野寺力 (元・日本フェザー級王者・KNOCK OUTプロデューサー)、石井宏樹(元・タイ国ラジャダムナン・スタジアム・スーパーライト級王者)らがいる。
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