世界一を目指した大煙突
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 08:50 UTC 版)
「日立鉱山の大煙突」の記事における「世界一を目指した大煙突」の解説
紆余曲折の末、大煙突の建設が決定されたが、高い煙突から排煙を行うことによって煙害を起こす有害物質を拡散させるという建設の狙いから考えると、煙突の高さは高ければ高いほど目的を達成できる可能性が高まることになる。しかし技術的問題や建設コストを考えると、当然建設可能な煙突の高さには限界がある。大煙突の建設決定に当たり、まず建設する煙突の高さが問題となった。久原房之助は当初、350尺(約106.06メートル)のものを考えていたというが、久原の右腕であった竹内維彦は500尺(約151.52メートル)の鉄筋コンクリート製の煙突を丘の上に建設する案を提示した。技術者上がりであった竹内は、これまで行われてきた高層気象の観測データ、風洞や久慈川で行われた模擬煙突の拡散実験データを踏まえ、500尺案を提案していったものと推測されている。大煙突の下書き設計書は、大煙突建設反対派が主張した100尺、そして300尺、500尺のものがあるが、結局竹内が主張する500尺案をベースに計画が進められることになった。 実際に建設された大煙突は500尺よりも少し高いものとなった。現在残っている記録によれば、大煙突の設計図上では510フィート(約155.45メートル)であり、また1917年(大正6年)の土木学会誌の「日立鉱山の現況」では511尺(約154.85メートル)と紹介されている。一方、大煙突設計の総責任者宮長平作は511フィート(約155.75メートル)であるとしており、日本鉱業の社史でもやはり511フィートであるとしている。また日立鉱山史の本文においても511フィートのメートル換算である155.7メートルとなっており、一般的には設計の総責任者の宮長が言う511フィートであるとされている。 なぜ竹内が提唱した500尺の煙突が最終的に511フィートとなったのかというと、当時世界最高のアメリカグレートフォールズの508フィート大煙突を越える高さの煙突に設計変更されたためであった。当初の設計よりも少し高くしさえすれば世界一の高さの煙突となるわけであるから、せっかくならば世界一のものを造ろうということになったのである。しかも1908年に建設されたグレートフォールズの大煙突はレンガ造りであったが、日立鉱山の大煙突は鉄筋コンクリート造の計画である。当時の日本はコンクリート技術の黎明期であり、鉄筋コンクリート建築も広まっていなかった。このような状況で、世界で最も高い煙突を鉄筋コンクリートで造ろうという野心的な大工事が始められることになった。
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