下山と甲斐国における大工集団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 08:10 UTC 版)
「下山大工」の記事における「下山と甲斐国における大工集団」の解説
下山大工が本拠とした下山の地は甲斐国巨摩郡下山(山梨県身延町下山)に所在する。甲斐南部の河内地方に位置する山間部で、南北に富士川が流れる。戦国時代には河内領主の穴山氏が本拠とした。中世には身延(身延町身延)に身延山久遠寺が創建され、江戸時代には門前町として栄えた。 甲斐国では室町時代から戦国時代にかけて、建築に携わる職人である番匠(ばんじょう)や屋根職人を意味する檜皮大工(ひわだいく)の活動が見られる。甲斐は他国から渡来した番匠が少なく、甲斐国内に居住した番匠が多かったことが指摘される。 戦国期の河内領では番匠大工頭・源三左衛門(げんさざえもん、生没年不詳)の存在が知られる。竹下氏姓を称する。源三左衛門は下山村に居住する番匠で、永禄6年(1563年)から活動が知られ、「諸州古文書」年未詳2月には穴山信君が源三左衛門(竹下氏)に対し、普請の内容は不明であるが、破風板(はふいた)に釘を打ち修理することを命じた文書が知られている。 中世・近世には駿州往還(河内道)が通過し、江戸期から明治初期には富士川舟運も盛んであった。 近世においては様々な大工集団が出現する。甲斐国においても下山大工以外に甲府城下町に散住した町方大工が存在し、彼らは中世の役引大工の由緒を持ち屋敷役免許の特権を得て領主の御用務めを義務づけられた。 また、在郷の村々に居住し農閑余業として近在の普請などを務めた小規模の在方大工や、有力寺社の境内や門前に居住し造営普請を担う寺内大工などの大工集団が存在していた。 甲斐国東部、都留郡内にも郡内大工仲間が存在し排他的な職域を有していた。 これら三種の大工集団はそれぞれ大工仲間を組織し、他領大工の介入を阻止し大工集団の広域進出に伴い対立も引き起こした。
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