三度目の就役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 04:13 UTC 版)
25年にも及ぶモスボール保管の後、アイオワは同級三隻と共にレーガン政権下の「600隻艦隊構想」で再就役が決定し、ルイジアナ州ニューオーリンズのエイボンデール造船所で近代化改修が開始された。その後ミシシッピ州パスカグーラのインガルス造船所で改修が完了し、1984年4月28日に再就役した。アイオワは1984年、85年、86年、87年から88年にかけてヨーロッパ水域に展開した。この間に海軍はニューヨーク、スタテン島のステープルトンに母港を建設する予定であったが、その計画は取りやめとなった。 1989年4月19日、二番砲塔内で爆発事故が発生し47名が死亡した(戦艦アイオワ砲塔爆発事故(英語版))。海軍犯罪捜査局は当初クレイトン・ハートウィグという水兵が二番砲塔内で爆発物を爆発させ自殺したと断定したがこの説は後に放棄された。アイオワ艦長フレッド・ムーサリーは問題の取り扱いに関して非難され、海軍は砲塔内での装薬取り扱い手順を変更した。同年中頃にアイオワはヨーロッパと地中海に展開した。1990年10月26日に予備役となった時点で二番砲塔は修理されなかった。 アイオワは予備役艦隊の一部としてニューポートの海軍教育訓練センターに1998年9月24日から2001年3月8日まで係留され、2001年4月21日にサンフランシスコのサスーン湾(日本では「スイスン湾」の表記もある)内の海軍予備役艦艇泊地に移動した。 アイオワは砲塔爆発事故を起こしたにもかかわらず予備役のままにあった。姉妹艦のニュージャージーの方が良好な状態にあり、16インチ砲訓練機構は溶接されていたが、海軍はニュージャージーをモスボール化することに決定した。ニュージャージー補修のコストはアイオワを補修するより少額ですむと考えられたが、1999年のストローム・サーモンド国防認可法によりニュージャージーの代わりにアイオワの補修が要求された。また海軍はニュージャージーをすでに博物館として寄贈する準備をしていたため、1999年1月に海軍はアイオワとニュージャージーの処遇を切り替え、ニュージャージーはニュージャージー州カムデンの手に渡った。 アイオワは1996年の国防認可法に従い2006年まで維持され、海軍長官はアイオワを除籍し博物館へ転用できるようにしたが、近代海軍での戦艦の存在意義を信じる人達がこれに反対した。
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