三井家時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 15:52 UTC 版)
1891年(明治24年)6月に払い下げのための入札が初めて行われたが、このときに応札した片倉兼太郎と貴志喜助はいずれも予定価額(5万5000円)に大きく及ばず、不成立になった。改めて1893年(明治26年)9月10日に行われた入札では、最高額入札となった三井家が12万1460円をつけ、予定価額10万5000円を上回ったため、払い下げが決定した(引渡しは10月1日)。 三井家の時代の経営はおおむね良好で、繰糸所に加えて木造平屋建ての第二工場を新設したほか、第一工場(旧繰糸所)からは揚返器を撤去し、揚返場を西置繭所1階に新設した。これは蒸気機関のせいで繰糸所内が多湿であったことから、揚返場を兼ねさせることに不都合があったためである。この時期には新型繰糸機などが導入され、開業当初の繰糸器、揚返器はすべて姿を消した。そのような新体制の下で生産された生糸は、すべてアメリカ向けに輸出された。 この時期に寄宿舎も新設したが、工女の約半数は通勤になっている。工女の労働時間は、開業当初に比べると伸ばされる傾向にあり、6月の実働時間は11時間55分、12月には8時間55分となっていた。読み書きや裁縫を教える1時間程度の夜学は継続されていたが、長時間労働で疲れた工女たちは必ずしも就学に熱心でなかったという。 三井は富岡以外にも3つの製糸工場を抱えていたが、4工場全てを併せた収益は好調とはいえなかった。また、三井家の中で製糸工場の維持に積極的だった銀行部理事の中上川彦次郎が病没したことも、製糸業存続には向かい風となった。こうして、三井は1902年(明治35年)9月13日に4工場全てを一括して原富太郎の原合名会社に譲渡した。原が4工場の代価として支払ったのは、即金10万円と年賦払い(10年)13万5000円であった。
※この「三井家時代」の解説は、「富岡製糸場」の解説の一部です。
「三井家時代」を含む「富岡製糸場」の記事については、「富岡製糸場」の概要を参照ください。
- 三井家時代のページへのリンク