一色時家と波多野時政、そして一色城主へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/03 09:21 UTC 版)
「牧野古白」の記事における「一色時家と波多野時政、そして一色城主へ」の解説
三河宝飯郡牧野城(愛知県豊川市牧野町)主・牧野成富の子として生まれる。成時の主君・一色時家は、関東公方足利持氏に仕えていた一色持家と同一人物とも言う。時家は同国宝飯郡長山に一色城(牛窪古城)を築城した。時家は三河東部で勢力拡大を図り、在地の武士であった成時は時家に服属した。 永享10年(1438年)からの永享の乱で、三河守護職・一色義貫が時家を匿ったかどにより、永享12年(1440年)に室町幕府将軍・足利義教の謀略的追討を受け、大和国信貴山(奈良県)の竜門寺で自害して果て、代わって阿波国細川氏の細川持常が三河守護職に任ぜられた。このため、三河国内は前守護一色氏残党と新守護細川氏の間で戦闘が勃発した。この争いは応仁の乱でも京合戦における東軍細川氏宗家と西軍一色氏宗家の対決を受けて三河版応仁の乱となって継続された。 応仁の乱終結の年の文明9年(1477年)、将軍・足利義政は東軍側である細川氏の幕府復帰を実現するために、西軍側であった一色義貫の嫡子・義直に和睦の条件として三河における支配権を放棄させ、長く争われていた細川氏の三河守護職権が確認された。義直に属する一色時家は家臣の大沢城(同県同市御津町豊沢)主・波多野時政(全慶)に殺害された。 一方、関八州における応仁の乱と言える享徳の乱は文明14年11月(1483年1月)に、将軍・足利義尚側と、足利持氏の子・足利成氏(古河公方)との間に和議が成立(都鄙合体、とひがったい)、持氏・成氏の関東公方としての名誉回復も成り、波多野全慶の正統性は揺らぎ出す。 明応の政変の起きた明応2年(1493年)12月、当時足利義澄・細川政元派と目された波多野全慶を旧一色時家被官であった古白は、灰塚野(異に灰塚原とも)合戦で討って旧主の仇を報じた。明応4年(1495年)には、明応の政変で京を追われていた前将軍・足利義材より三河の旗頭に任じられたとされ、古白は義材派であったと推定されている。 灰塚野合戦の勝利により、古白は一色城に入城して、宝飯郡真木村(後に瀬木村に改称)の瀬木城主から一色城主へと遷った。
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