ヴェストファーレンのカトリック市民の娘、ロマン主義作家(1817年‐1847年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 05:31 UTC 版)
「マティルデ・フランツィスカ・アネケ」の記事における「ヴェストファーレンのカトリック市民の娘、ロマン主義作家(1817年‐1847年)」の解説
マティルデ・フランツィスカ・フォン・アネケは富裕な鉱山経営者カール・ギースラーとその妻エリーザベト・ヒュルスヴィットがもうけた12人の子供たちの長女として生まれた。家庭教師によって教育を受けた彼女は保守的なカトリック教徒として育てられた。同時代人の意見では、教養あり、愛らしく、若いうちからすでに身長180センチの堂々たる風采を持っていたという。 1820年一家はブランケンシュタインに、1834年にはハッティンゲンに引っ越した。このころ父が鉄道会社に投資して財産を失い、一家は財政的問題を抱えていたが1836年ミュールハイム・アン・デア・ルールのワイン商アルフレート・フィリップ・フェルディナント・フォン・タンブイヨがマティルデに求婚し、彼女はこの打算的結婚を承諾した。タンブイヨは両親の借金を肩代わりし、ギースラー家は貴族の称号を手に入れたのである。 1837年11月27日には娘のファニー(ヨハンナ)が生まれた。1837年12月マティルデは娘とともに暴力を振るう夫の元を去り両親の元に帰った。離婚訴訟は1838年から1841年まで続き、妻の側に非があったとされながらも、娘の養育権と旧姓を名乗る権利を認められて終了した。 離婚したマティルデはミュンスターに住んだ。彼女はここで作家として活動し、アネッテ・フォン・ドロステ=ヒュルスホフのサロンに属した。この時期カトリックの信仰は彼女にとって大きな慰めとなり、女性向けの祈祷書を出版している。1840年マティルデは個人でではなくフェルディナント・フライリヒラート、ニコラウス・レーナウ、バイロン卿、そしてアネッテ・フォン・ドロステ=ヒュルスホフと共に詩集を出版した。そのかたわらジャーナリストとしても活動し、『ケルン新聞』や、当時ドイツ語の新聞で最も有名だった『アウクスブルク一般新聞』などに書いている。この新聞にはハイネも寄稿していた。
※この「ヴェストファーレンのカトリック市民の娘、ロマン主義作家(1817年‐1847年)」の解説は、「マティルデ・フランツィスカ・アネケ」の解説の一部です。
「ヴェストファーレンのカトリック市民の娘、ロマン主義作家(1817年‐1847年)」を含む「マティルデ・フランツィスカ・アネケ」の記事については、「マティルデ・フランツィスカ・アネケ」の概要を参照ください。
- ヴェストファーレンのカトリック市民の娘、ロマン主義作家のページへのリンク