レイとサラ・トンプキンス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 20:21 UTC 版)
「エール大学ゴルフコース」の記事における「レイとサラ・トンプキンス」の解説
ニューヘイブンの地にゴルフがもたらされたのは、ロバート・プライド (Robert Pryde) がニューヘイブンゴルフクラブ (New Haven Golf Club) を立ち上げて、現在のニューホールビル (Newhallville) およびプロスペクトヒル (Prospect Hill) の付近に9ホールのコースを建設した1895年の秋ごろだった。ゴルフはニューヘイブンの住民とエール大学の学生の間で非常に高い人気のスポーツとなり、1900年には現在のアルバータスマグナスカレッジ (Albertus Magnus College) がある付近にまで北側に拡張されて18ホールコースとなった。だがその後コース周辺に住宅が増えたため再び9ホールへの縮小を余儀なくされ、ついには1911年に閉場してしまった。エールの学生たちはオレンジにあるレースブルックカントリークラブ (Race Brook Country Club) に出向かなければならなくなったが、キャンパスからは距離があってとても不便になった。それでも依然としてゴルフ熱が冷めない様子を見たジョージ・アディー (George Adee、エールフットボールチームのクオーターバックでレイ・トンプキンズの10年ほど後輩) は1922年、エールアスレチック協会に手紙を書き、学生らの欲求不満と懸念の様子を訴えた。この時点で、プリンストン大学は既に自前のコースを所有しており、また、ハーバード大学も専用コース建設計画をスタートさせていたこともあり、アディーの提案をきっかけとしてレイ・トンプキンスの未亡人であったサラ・ウェイ・トンプキンスの持つ土地を購入するか寄付を受ける方向で計画が進行することになった。レイ・トンプキンスは1882年及び1883年のエールフットボールチームキャプテンであり、ニューヨークの “Chemung Canal Trust Company” の社長を務め莫大な財産を得た。1918年に死亡したが、妻のサラに100万ドル以上の不動産を遺産として残した。しかし遺言には、サラの死後に残った財産は「大学の学生がスポーツ活動練習を拡張し発展させるための施設を提供するために」エールに与えられるとの規定があった。アディーによる提案の翌年(1923年)、エール大学はグリーストエステイト (Greist Estate) と呼ばれる土地を購入したうえでそれを大学に寄付してほしいとトンプキンス夫人に願い出た。夫人はためらうことなく受け入れ、当該土地を375,000ドルで購入した。
※この「レイとサラ・トンプキンス」の解説は、「エール大学ゴルフコース」の解説の一部です。
「レイとサラ・トンプキンス」を含む「エール大学ゴルフコース」の記事については、「エール大学ゴルフコース」の概要を参照ください。
- レイとサラトンプキンスのページへのリンク