ルーマニア軍のティサ川到達
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 06:30 UTC 版)
「ハンガリー・ルーマニア戦争」の記事における「ルーマニア軍のティサ川到達」の解説
4月23日、ルーマニア軍はデブレツェンを占領し、ベーケーシュチャバへの攻撃を企図した。25日に攻撃が開始され、激戦の末に26日に街は陥落した。ハンガリー軍の残余はソルノクに集結してティサ川を越えて西方へ脱出すべく、ソルノクに二か所の防衛線を構築した。ティサ川西方からハンガリー軍の増援があったものの、4月29日から5月1日にかけての戦闘でルーマニア軍はなんとかこの防衛線を突破できた。5月1日、ティサ川から東は全てルーマニア軍が占領していた。 5月2日、クン政権は和平を乞うた。ワース中佐を通じた和平提案で、クンはルーマニアの全ての領土的要求を受け入れる代わりに戦闘状態の停止とハンガリーの内政への不干渉を求めた。ルーマニアは休戦のみを提案したが、これは連合国最高司令部の圧力によるものだった。4月30日にピション仏外相が平和会議ルーマニア代表のブラティアヌ首相を呼び寄せ、ルーマニア軍の前進をティサ川で止め、最終的には連合国が取り決めた境界線まで後退するよう要求していた。ブラティアヌはルーマニア軍はティサ川を渡河せず、川の東側に留まる事を約束している。 モショイウ将軍がルーマニア国境及びティサ川地区の長官に任じられ、北方集団の指揮はミハエスク将軍に交代した。同時にルーマニア第7師団はハンガリー戦線からロシア戦線の北モルダビアへ移動した。
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