ルーマニア軍のブダペスト占領とソビエト共和国の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:16 UTC 版)
「ハンガリー評議会共和国」の記事における「ルーマニア軍のブダペスト占領とソビエト共和国の終焉」の解説
ブダペスト労働評議会は社会民主主義者のペイドル・ジュラを首相とする新政府を選んだが数日しか持たず、8月4日にルーマニア軍がブダペストを占領し、6日にナショナリストによってペイドル政権は倒され、ハンガリー・ソビエト共和国は消滅した。ペイドルは一時オーストリアに亡命したが、1921年に帰国した。 クンは最終的にソ連へ亡命できたが、赤色テロを主導したサムエリはオーストリアへ逃れたものの捕えられ、8月2日に殺害されている。レーニン少年隊指揮官だったチェルニ・ヨージェフは逮捕され、1919年11月に裁判にかけられたが、ハンガリー法律家協会は彼の弁護を拒否したため、裁判所によって弁護人が選ばれている。チェルニは12月に処刑された。 ソビエト共和国の崩壊とルーマニア軍の占領による権力空白の中で、ベトレン・イシュトヴァーンとホルティ・ミクローシュら保守派がハンガリー西部を次第に支配するようになり、ルーマニア軍の撤退開始後にブダペストに入り、ハンガリー共和国臨時政府(英語版)として政権を掌握した。 不正規兵の独立部隊(名目的にはホルティの指揮下だが、実際は自発的な)が共産主義者、左派そしてユダヤ人を迫害し始めた。これは白色テロとして知られる。ハンガリー・ソビエト共和国の支持者の多くが裁判なしに処刑され、または裁判の上、投獄された。彼らの多くは、ホルティの統治期の1921年にソ連とハンガリーが結んだ捕虜交換協定によって恩赦を与えられて、ソビエトへ送られている。最終的に415人の囚人がこの協定でソ連へ出国した。クンと何人かのハンガリー共産主義者たちは1930年代にスターリンの大粛清の犠牲となっている。
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