ルイ・ナポレオンの復帰
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「フランス第二共和政」の記事における「ルイ・ナポレオンの復帰」の解説
社会主義者狩りが進行していた頃、或る亡命者が表舞台に登場しようとしていた。共和派軍人カヴェニャックが皮肉にも六月蜂起の弾圧者となったことを喜び、「この男は私のために道を掃いているのだ」と語った男、ルイ・ナポレオンである。 1848年6月、彼はブリテンに亡命中であったが、6月の補欠選挙で立候補して当選を果たした。ピエール・プルードン、アドルフ・ティエール、ヴィクトル・ユゴーもこの選挙で当選した。だが、ルイ・ナポレオンは外国政府や反動勢力からの資金援助と支持を受けて政治活動を図り、やがて共和制の敵になることが疑われた要注意人物であった。議会では危険な亡命者が議席に就くことを承認するか否かで議論が紛糾した。ラマルティーヌは「共和国のなかの一徒党がいかに光輝ある名前を装っていたとしても、われわれはそのヴェールを引き裂き、その名前の背後に徒党しか見ないのだ」と語った。しかし、母国政府での不信をよく弁えていたルイ・ナポレオンは、賢明にも議席に就くことを辞退するとともに、議会で共和国への忠誠を表明した。議会多数を占めていた秩序党はルイ・ナポレオンに誠実さを感じ入り、彼のフランスへの復帰を承認するとともに、その政治的復権の道を開くことになった。ルイ・ナポレオンは一連の芝居によって議会内に同調勢力を作り出し、その後の政治的基盤の形成に成功したのである。 ルイ・ナポレオンの権力への道に貢献した人物に保守派のファルー公爵(英語版)がいた。ファルーは共和派のカヴェニャックに民衆を弾圧させるという汚れ仕事をさせるべく陰謀をめぐらせていた。歴史はファルーの思惑通りに展開、国立作業場を閉鎖して民衆の蜂起を誘発してカヴェニャックがこの蜂起を鎮圧、共和派は同士討ちを演じた。共和派を構成する自由主義者と社会主義者、ブルジョワとプロレタリアは反目しあう関係になり、相互不信が広まっていった。弾圧者としての役割を果たしたカヴェニャックにもはや利用価値は無かった。ルイ・ナポレオンとファルーら秩序党(英語版)の思惑は一致し、カヴェニャック降ろしのために共闘するようになる。 1848年9月、再び補欠選挙が実施された。ルイ・ナポレオンは圧倒的な支持で当選を果たした。この選挙ではすでに一議員の存在としてではなく、ポスト・カヴェニャックの有力候補へと成長していた。しかし、25日にいざ議席に就いてみると、議会でのルイ・ナポレオンは長い亡命生活のゆえにフランス語の発音が下手で演説力に著しく欠き、政治家としての資質を備えているとはおよそ思えない七光り議員であった。保守派にとっても扱いやすい神輿と見なされていた。 アドルフ・ティエールはルイ・ナポレオンについて「ただのバカ」と一言で評した。オルレアン派のレミュザは「鉛色の長い顔に鈍重な表情、ボアルネ家特有のだらしない口元をしている。顔が身体に比べて長すぎるし、胴も足に比べて長すぎる。動作が鈍く、鼻にかかった声でよく聞こえず、話し方も単調だ。ようするに外見からすると、非常に感じが悪い」と評した。
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