リトル・ウィリーとビッグ・ウィリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 22:57 UTC 版)
「リトル・ウィリー」の記事における「リトル・ウィリーとビッグ・ウィリー」の解説
ウィルソンは「リンカーン・マシン ナンバー1」(「試作1号車」)の基本設計案について不満を抱いており、8月17日により良い設計を得て、9月17日には改善された全く新しい試作車両の製造を開始した。 この新しい「試作2号車」は、後に、「HMLS(=国王陛下の陸上軍艦) センチピード(=ムカデ)」、「ビッグ・ウィリー」、「マザー」の名称で知られる物となった。偏った菱形の無限軌道のフレームは、車輛の上部から頂部を越えて履帯を装着した。後部のステアリングホイールは改善された形状で残されたが、車体上面の砲塔は廃止され、兵装を装備するためのスポンソン(舷側に設けられる張出し部分、砲郭)に変更された。 トリットン・マシン(「リンカーン・マシン ナンバー1」前期型)は、1915年12月に、装軌を90 cm延長するよう改修されたが、しかしバートン・パークで行われた無限軌道の試験は芳しくなかった。試作2号車の方は、より成功が約束されているように見込まれた。 その改修された、「リンカーン・マシン ナンバー1」後期型は、「リトル・ウィリー」と呼ばれた。この穏当でない名称の由来は、当時一般に大英帝国の三流雑誌で、ドイツ帝国のヴィルヘルム皇太子を茶化して用いていたものである。試作2号車はその時点で「ビッグ・ウィリー」として知られていたが、これもまたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世のことであった。また、別の説では、開発者の一人であるウォルター・ゴードン・ウィルソン中尉の愛称である「ウィリー」に由来するともされる。 同年、漫画作家W・K・ヘイセルドンは、人気を博した対ドイツ向けプロパガンダの映画や漫画を製作した。『ビッグ&リトル・ウィリーの冒険』(原題The Adventures of Big and Little Willie)である。 1916年1月、リトル・ウィリーは模擬砲塔を撤去し、ビッグ・ウィリーと最初の量産の受注を競っていた。ただし前述のように、リトル・ウィリーは超壕性能が劣っており、これが決定に不利であった。 ビッグ・ウィリー(後に全ての戦車の原点という意味でマザーとも呼ばれる)はマーク I 戦車の原型となり、リトル・ウィリーの装軌形状は、後にマーク A ホイペット中戦車へと引き継がれた。 実戦参加の機会はなかったものの、リトル・ウィリーは軍事技術史上の大きな前進であり、世界初の(試作)戦車となった。同時期に開発された戦闘車輛としては、フランスのシュナイダーCA1があり、これは1915年1月初頭に開発開始されていたが、その試作1号車は1916年2月に完成した。
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