ラーオ・イサラ勢力の脆弱さ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/27 05:50 UTC 版)
「ラーオ・イサラ」の記事における「ラーオ・イサラ勢力の脆弱さ」の解説
当初6か月間は、ホー・チ・ミン指揮下のベトミンと中国共産党が支援する国防軍をペサラートの異母弟であるスパーヌウォンが指揮し、政権は維持された。 しかし、1946年3月6日ホー・チ・ミンがフランスと暫定協定は、中国共産党軍の撤退を含んでおり、そのことは単独で残されたラーオ・イサラ軍の弱体化を招いた。一方で、外国からの支援を受けられなくなった、ラーオ・イサラ軍は内部的な脆弱性をも露呈することとなった。 ラーオ・イサラは、都市部に拠点を置く民族運動であり、部族意識の強い大衆層からは、支持を得るに至らずラオス独立の主張は大衆の共感を得なかった。 “大衆は、秩序の回復には、ほとんど沈黙しており、独立への想いも訴求することはなかった、個人的に言えば、それは、かつての体制―即ち、フランス-への忠誠心なのだと考える。.” - Houmphanh Saignasith, 経済大臣補佐官 ラーオ・イサラは財政問題にも対処できなかった。軍隊はその保全に多額の費用を要するものであるが、スパーヌウォンはその調達を怠った。ほんのわずかな期間に、ラーオ・イサラ政府の予算は底をついた。 1946年初頭、財政支出とインフレを収めようと、カターイ・ドン・サソリット(英語版)は、新紙幣を発行したが、その紙質の粗末さと低い信用力から「カターイの乾いたバナナの葉」とあだ名された。 財政破綻したラーオ・イサラ政府は再攻勢に出たフランス軍に抗する術はなかった。1946年3月中国共産党軍撤退後、フランス軍は本格的攻撃をはじめ、同月のターケークの戦いでスパーヌウォンが瀕死の重傷を負うなど大敗戦を期し、そのままフランス軍は1946年4月末ビエンチャンを占領、5月にはルアンパバーンに至り、ラーオ・イサラ政権の指導者はタイに亡命することとなった。
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